第18話
「あの……すみません」
おずおずと男に声を掛けると、男は窓外に向けていた視線を桃花に向ける。冷ややかな細い目に委縮するが、桃花は背筋を伸ばすと真っ直ぐに男を見つめ返す。
「お品書きを、お持ちしました……」
「貴女が? 先程この茶館の従業員では無いと仰られていましたが?」
「今は違いますが、でもこの茶館に来たお客様のおもてなしをしたいという想いは私も同じです」
「貴女が私をもてなすということですか?」
疑うような男に桃花は何度も首を縦に振ると、品書きを男の目の前に置く。
「そ、そうです……。お飲み物は何にしますか? 用意をしてきます……」
「必要ありません。どうぞお構いなく」
「で、でも……」
品書きを一瞥することもなく、男は再び目線を庭に戻してしまう。
「もてなしたいのなら勝手にやってください。私は人を待っているだけですので」
最初の印象が悪かったからかすっかり見下されているらしい。これまでだったらここで引いて裏で落ち込んでいるところだが、今の桃花は違う。腹にぐっと力を入れると、「わかりました」と落ち着いた低い声で話し出す。
「私の好きにやらせていただきます」
桃花の言葉に男はハッとしたように顔を向けて何か言いたげな様子でいたが、その時には桃花は深く一礼をしていた。
男の顔をよく見ないまま、桃花は品書きを手に部屋を立ち去ろうとすると、引き戸のところで海石榴が待ち構えていた。桃花たちの話を聞いていたのか、海石榴はどこか懐かしむような切ない顔をしていたものの、やがて深く頷くと炊事場を指す。
「好きにもてなすとは言ったけど、どうしようかな……」
炊事場に戻って引き戸を閉めると、悩むように独り言ちる。そんな桃花に対して、海石榴は迷いなく香草の硝子瓶が並べられている戸棚に向かうと、その内の一つを取るように桃花を促す。硝子瓶を取った桃花は瓶に書かれた文字を読み上げたのだった。
「
海石榴を振り返れば正解というように首を縦に振られる。次いで神目帚の硝子瓶を指した後に、急須で茶を注ぐような仕草をする。これを男に出せということだろう。
硝子越しの神目帚は乾燥させた緑色の草といったところであったが、試しに匂いを嗅いだ桃花は目を丸くする。
「これって……!」
カミツレという乾燥した白い花も林檎のような甘い香りがしたが、この神目帚という草からは和薄荷によく似た清涼感のある爽やかな匂いがした。
和薄荷は食欲不振や虫刺されに良いと言われている薬草で、桃花も狩谷家が所有する野山で何度か摘んだことがある。香草と言っても、やはり草花ごとに見た目や匂いは違うらしい。
馴染みの香りで疲れた心を和ませていると、頬を膨らませた海石榴に早く茶を淹れるように急かされる。
「でもね、海石榴ちゃん。私、神目帚を使ったお茶を淹れたことが無いから淹れ方が分からないの。それに茶館のものを勝手に使っていいのかな……」
品書きに書かれていた飲み物なら後で桃花が支払えばいいが、この神目箒を使った飲み物は品書きに書かれていない。実は貴重な香草だったとしたら、後で高額を請求されるかもしれない。
ほとんど身一つで嫁いできた桃花は金に換金できるような金品を持ち合わせていないので、労働かそれこそ身体で返すしかなくなってしまう。香雪に迷惑をかけるような事態にならなければいいが……。
そんな桃花の不安な胸中を察したのか、海石榴は桃花の身体に抱きつくと大丈夫というように真っ直ぐに目を見て微笑んでくれる。霊体の海石榴に抱きつかれても桃花の身体を通り過ぎるだけ。それでもいつも本当に抱きしめられているような温かさを感じるのは何故だろう。
尻込みする桃花を勇気づけようとしてくれる海石榴に心が決まる。
(しきちゃんは変わらないね)
いつだって海石榴ことしきちゃんは桃花を信じて味方になってくれた。両親や女中長からの謂われなき疑いや言葉で傷ついた桃花を慰め、そして桃花の無実を信じてくれた。それはしきちゃんの本当の名前を知った今も変わらない。海石榴が桃花を信じるように、桃花も海石榴を信頼している。その海石榴が神目帚で茶を淹れるように言うのなら、桃花はそれを信じるだけである。
「神目帚のお茶の淹れ方を教えてくれる? それかどうやって調べたらいいのかを」
桃花の決意に気付いたのか海石榴は花が咲いたような笑みを浮かべる。
すっと離れて湯を沸かすように手振りで教えてくれる海石榴に桃花の口角がわずかに上がったのだった。
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