第17話

 男は椅子や座敷席が並ぶ部屋の引き戸を開けると、がらんどうとした大部屋に足を踏み入れる。やはりこの場所は茶館として使用されている部屋なのだろうか。男は慣れたように日当たりの良い窓際の席を選ぶと椅子に腰かける。

 男の正体を尋ねようと話しかけようにも、男から漏れる気難しい空気に圧倒されて手をこまねくことしか出来ない。それに加えて、茶館の看板を出しておきながら、誰も接客に来ないのも気掛かりであった。

 客以外の人の気配も全く感じられないので、誰も来ないからと茶館の店主や従業員は全員外出してしまったのかもしれない。ここが狩谷家だったら間違いなく、両親や女中長が烈火のごとく怒り狂って、屋敷中の女中や書生を叱責している。

 これまでの習慣なのか、放置されている男の姿に気を揉んでしまう。


(香草茶館ってことは、提供されるのは香草を使った飲み物ってことだよね……?)


 香草なら桃花も聞いたことがある。西洋では神代の頃から「自然の薬」として、食べ物から香水まで幅広く使われているらしいが、この国では最近普及し始めたばかりでまだまだ知られていない。華族などの上流階級の間では徐々に浸透しているらしいが、下町では実物さえ出回っておらず、狩谷家でも話を聞く程度だった。

 口にしたことが無いので香草を使った飲みの物味が全く想像できないが、薬湯のような苦いものなのか、はたまた汁物や煎茶のような誰にでも飲みやすいものなのか――。


(せめてお品書きでもあれば……)


 自分にも何か出来ることはないか考えながら廊下に繋がる引き戸を開けると、すぐ目の前に海石榴が立っていたので危うく声を上げそうになる。


「つっ、海石榴ちゃん……!?」


 男に気を取られて海石榴の存在をすっかり忘れていた。きっと今まで桃花の代わりに炊事場を探してくれていたのだろう。何かを期待するように桃花を見上げる海石榴の姿から、きっと炊事場を見つけて呼びに来てくれたのだと察する。弾むような足取りの海石榴に手招きされる形ですぐ隣の部屋に入ると、大きな炊事場に辿り着く。


「ここにあったんだ」


 誇らしげに胸を張る海石榴に桃花は「ありがとう」と礼を言うと、多少の申し訳なさと共に戸棚や氷冷蔵庫を開ける。氷冷蔵庫の中はほとんど空だったが、戸棚には紙が貼られた硝子製の瓶が無数に並べられていた。一つを手に取ってまじまじと見ると、外に出ていた看板とよく似た筆跡で文字が書かれていたのだった。


「これは……カミツレ、でいいのかな?」


 硝子瓶の中には乾燥した白い花びらと黄色の花托が入っていた。わずかに蓋を開けて匂いを嗅ぐと、果物のような爽やかな匂いに心が満たされる。見たことがない花なので、香草の一種かもしれない。

 その他にも桃花が初めて見る草花が瓶に分けられて戸棚に入れられていた。これらも全て茶館で提供されている香草だろうか。


「変わった植物がたくさんある……これ全て食用なんだよね。香草茶館っていうくらいだし……」


 そう言いつつ海石榴に頭を向けた桃花は、そのまま固まってしまう。さっきまで得意げな顔をしていた海石榴がどこか呆けたように小さく口を開けて、戸棚を見ていたからであった。


「海石榴ちゃん……?」


 桃花の呼びかけに海石榴はハッと我に返ると、慌てた様子で近くの卓を指す。そこには手書きで「お品書き」という半紙が置かれていた。書いている途中だったのか文字は半乾きで、品目や値段も一部しか書かれていないようだった。


「カミツレ茶って、この花を使ったお茶ってこと? 他にも薄荷茶や檸檬草茶、茉莉花茶ってあるけど、これも香草を使ったお茶の名前なのかな?」


 戸棚にはそれぞれ「茉莉花」、「檸檬草」と書かれた紙付きの硝子瓶があったので食品の名前であることは間違いない。

 店の者は茶館に客が来店したら、このお品書きを渡すつもりで作成していたのだろう。代わりに桃花がこの品書きを先程の男に渡してもいいが、茶館とは無関係の桃花が勝手なことをしていいのだろうか。

 それなら香雪か茶館の関係者が戻ってくるのを待つのが無難だろうが、どちらもいつ戻るか分からない。屋敷内に香雪の姿も見えないので、茶館の関係者と一緒に出掛けた可能性が高く、このまま男を待ちぼうけにしてしまっていいのか、桃花は妖刀の柄に触れながら逡巡する。

 ここが狩谷家なら両親や女中長の顔色を伺って男をそっとしておくだろう。両者共に桃花を人前には出したがらなかったので、来客の相手は常に他の女中や書生にさせていた。勝手に手を出すと激しい罵倒と叱責の嵐に襲われ、罰として気が済むまで食事を抜かれる。

 その割には頼んだ女中や書生が失態を犯すと、その怒りを桃花に向けてきたので、桃花は息を潜めるようにあの家で過ごさなければならなかった。


(でもここは狩谷家あのいえじゃない。香雪に恥をかかせないためにも、ここは私が場を繋げないと……!)


 男のもてなしに失敗して香雪や茶館の人たちに迷惑をかけてしまったら、今度こそ香雪の元を追い出されるかもしれない。そうなったら行き場のない桃花に待ち受けている運命は生き倒れだけだろう。狩谷家にいた時以上の不幸な運命を辿ることになるのなら、いっそのことあやかしに喰われた方がずっといい。

 それでもほんの少しでも香雪の役に立つ可能性があるとしたら、失敗しても後悔はしない。自分に価値を見出してくれた香雪のために何かしたい。

 気持ちを固めると、桃花は袖をたすき掛けにする。乾ききっていない半紙の品書きを手に、男の元に取って返したのだった。

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