第12話

「あまり身を乗り出すと落ちるぞ」


 後ろに流れて行く慣れ親しんだ屋敷から目を逸らすと、朧車はゆっくりと上空を進みだす。桃花は簾から手を離すと、香雪に身体を支えられて朧車の奥へと向かう。


「これから何をしたらいいんですか? 家事は一通りできますし、夫婦の営みも……努力するつもりでいますが……」


 使用人同然の扱いを受けていた学のない桃花でも、さすがに夫婦の営みくらいは知っている。

 鬼狩り一族の血を絶やさないように、狩谷家の娘は早くから陰陽師や退魔師の家系に嫁がされる。子供は多い方が良いとされ、後継者に不測の事態が起きた時に備えて、そこから狩谷家の血を引く養子を迎えることも珍しくない。

 狩谷家で不憫な扱いを受けながらも、これまで追い出されることなく生かされてきたのは、ずっと狩谷家の血を引く後継者を産まされるためか、弟妹たちに何か起こった時のための予備だと考えていた。――妖刀に差し出す生贄として生かされてきたとは、思いもよらなかった。

 すると香雪は桃花の腰を支えながら天井に目をやると、何かを考えるように「う~ん」と唸る。


「特に何も考えていなかったな。夫婦になった以上、いずれは男女の契りも結ぶだろうが、今はお前の身体や体調を整えることが優先だからな。祝言を挙げるまで、しばらくは何もしなくていいんじゃないか」

「そんな! そこまで気を遣っていただかなくても、私は元気です」

「怪我を負った小鹿同然のボロボロの身体で何を言っている。こんな身体で新しい環境に馴染めるわけがないだろう。無理をして倒れるのが目に見えている」

「身体が傷だらけなのは香雪も同じです。弟に腕を刺されて、角だって折れて……。どちらも怪我の具合はどうですか?」

「こんな傷、大したことない。放っておいてもじきに塞がるだろう。鬼の治癒力は人間の比じゃないからな」

「でも……」


 香雪の言う通り、鬼の治癒力の高さは人間の回復力を遥かに凌駕している。それどころかあやかしの中でも屈指の頑健さを誇るとされている。余程の深手を負わない限りは一昼夜で快癒するだろう。

 だがそれも鬼の力の源である妖力があってこそ。妖力の根源ともいうべき角を失った香雪の回復力は落ちている。桃花たち人間と同じくらいなのか、それ以下かは分からないが、妖力も無い状態ですぐに傷が癒えるとは考えられない。桃花が知らないだけで、香雪には何か秘策があるのだろうか。

 不安な気持ちを上手く伝えられない悔しさから桃花は唇を噛む。そんな桃花の気持ちに気付いているはずの香雪は「心配してくれて、ありがとな」と感謝の言葉を口にして、桃花の頭をぽんぽんと軽く叩いただけであった。

 

「俺のことより桃は自分の心配をしろ。必要なものがあればすず――弟に届けさせるから、今の内に考えておけ。最低限の着替えしか頼んで来なかったからな」

「でも何かしなければ、私が香雪の傍にいる意味がなくなってしまいます……」


 香雪なら大丈夫だと思っていても、やはりどこか心細い。これまで誰かの役に立たなければ自分に生きている意味はないと、桃花が思ってきたからだろうか。

 家族からどんな扱いを受けても逃げずに女中として身の回りの世話や屋敷の家事をしてきたのも、そして鬼狩り一族の一員としてあやかしから人間を守ろうとするのも、そうしなければこの世界、そして鬼狩り一族に生まれてきた意味が無いと考えていたからだった。

 直接的にしろ、間接的にしろ、どちらも桃花が働くことで誰かの役に立っている。対価も無しに、誰かの愛情や好意を受けられるとは思えなかった。

 もし万が一にも怪我や病気で身体が動けなくなって自分に与えられた務めが果たせなくなったら、役に立たたない桃花は処分されるかもしれないと、あの屋敷に住んでいた時はずっとそればかり恐れていた。桃花を産んで儚くなった母のように見捨てられるかもしれない、それとも足を折った馬が人の手で終わりを迎えるのと同じような目に、桃花も遭うかもしれないと――。

 

「意味なんて必要ない。ただ単に俺が傍にいて欲しいと思ったから、お前を嫁に迎えようとあの屋敷に行った。狩谷家の現状も見られて、鼻も明かせて清々した」


 満足そうに胸を張った香雪に少しだが気持ちが晴れる。わずかに気が楽になった桃花はずっと心に引っ掛かっていたことを尋ねたのだった。

 

「ところで、どうして屋敷に入れたんですか? それ以前に屋敷の場所自体、教えていなかったと思いますが……」

「お前の血の匂いを覚えていたから、そこから気配を辿った。屋敷を囲む結界もかなり弱まって、魔除けの効果があって無いようなものだったから、割とすんなり中に入れたよ」

「血の匂いって……。あの掌を診た時ですか?」


 昨晩、石で掌を切って血を流した際に香雪が心配して応急処置を施してくれたが、その時に桃花の血を覚えたのだろうか。血の匂いから気配を辿るということは人間には出来ない。

 どんなに優しくても、やはり香雪は鬼なのだと自覚させられる。


「ああ。お前の血は甘くて優しい。熟れた桃の実も同然の甘さで耽溺しそうになる。これからは心ゆくまで味わえるかと思うと、楽しみで胸が踊る。本当はすぐにでも吸い付きたいくらいだ」

「吸い付くって……!」

 

 掌に接吻されたことを思い出して、急に恥ずかしさが込み上げてくる。あの時でさえ羞恥を覚えたというのに、吸い付かれたらどうなることか……。

 桃花が熱を帯びた頬を両手で押さえていると、目の前に白い頬を膨らませていじけたような顔をした海石榴が現れる。


「なんて顔をしているんだよ。別に桃を虐めているわけじゃないぞ」


 霊体となっている海石榴は話さないが、表情や仕草から何を言いたいのか分かる。膨れ面のまま香雪に詰め寄る海石榴に桃花は口元を綻ばせる。


「海石榴ちゃんも私たちの会話に交ざりたいんだと思います。海石榴ちゃんにとっても、香雪と……お兄ちゃんと会うのは久しぶりだから」

「そういえば、お前は海石榴を見ても、最初からあまり驚かなかったな。面識があったのか?」

「面識があったというよりは……」

 

 桃花と目が合った海石榴が花のような笑みを浮かべる。陰りのない笑みが桃花の冷え切った心に染み入る。


「あの屋敷での心の支えでした。子供の頃からずっと……。ここ数年は会えていませんでしたが」

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