第7話

「いつの間に、どうして!? 屋敷の結界は!?」

「説明はあと。とりあえず中に入れてくれないか? さっきから屋敷を守護する式たちが近くを彷徨いて落ち着かないんだ」


 桃花が恐る恐る硝子戸を開けると、男は軽々と入り込んでくる。

 狩谷家の敷地はあやかしから屋敷を守る強力な結界に加えて、地上、上空ともに父の式神が不審者の侵入を監視している。たとえ人間の泥棒であっても、狩谷家に足を踏み入れた途端、式神から攻撃を受けるはずであった。しかし桃花の部屋を見渡す男の姿を見る限り、擦り傷一つ負っていない。父の式神が鬼に効かないことなどあり得るのか……?


「意外と狭い部屋だな。ここは物置部屋か?」

「私の部屋……です……」


 改めて言葉にすれば虚しさが胸の中に広がる。両親や弟妹たちはともかく、使用人でさえもっと広い部屋を与えられている。こんな桃花と男の二人しかいないにもかかわらず、窮屈に感じられる物置も同然の狭い部屋を使っているのは、なけなしの温情で使用人として屋敷に置いてもらっている桃花だけであろう。

 男は妖刀を持っていた桃花を狩谷一族の令嬢と思っているようだが、実際の桃花は使用人以下の存在だ。労働をしなければ食事も与えられず、失敗をすれば暴言と暴力に晒される存在。各家庭で飼われている犬や猫などの動物でさえ、もっと大切に扱われている。愛玩動物以下の桃花は奴隷と言っても過言ではない。

 

「部屋……? って、その顔はどうした? 帰りに野党か悪いあやかしにでも襲われたのか?」

「こ、これはっ、その……」


 急に恥ずかしさが込み上げてきて、桃花は顔を伏せる。男は膝をついて目線を合わせたかと思うと、両手で掬い上げるようにして桃花の両頬を包む。


「泣いていたのか?」

「……」


 何も答えないでいると、桃花は否応なしに上を向かされるが、その弾みで目尻から涙が零れてしまう。男はすぐさま長い指先で零れた涙を拭ってしまうと涙筋を辿るようにして、桃花の目尻に残っていた残りの涙も払ってくれたのだった。


「なっ、なにをっ……」

「じっとしていろ。綺麗さっぱり拭いてやるから」

 

 そう言って男は高級感のある着流しの袖で頬の腫れが痛まないように優しく頬を拭いてくれる。男の不可解な行動に言葉もなく瞬きを繰り返していると、やがて桃花の胸の中で何かが氷解されていくのを感じたのだった。


(何だろう、この感情……とても心地良くて、くすぐったい……)

 

 むくむくと沸き上がる感情に戸惑いを覚える。これまで凍りついていた心や感情が男との触れ合いで溶かされて、湖面に向けて浮上しているようでもあった。

 家族に暴力を振るわれていく中で、いつの間にか希望や救い、愛情といったいくつかの感情を桃花は心の奥底に沈めてしまっていた。その内の一つが男によって氷解して、春の陽気を纏った雪解け水のように胸の中に広がろうとしていた。

 得体の知れない熱を帯びた感情が身体中を火照らせ、久しく動かなかった心を刺激するが、男の頭から生える黒い角が視界に入った瞬間、冷水を浴びせられたかのように急速に熱が引いてしまう。


(そっか。これも妖刀を手に入れるための作戦の一つなんだよね……)

 

 男の言葉が自分に向けられたものでは無いと気付いた途端、溶解した心が再び霜に覆われてしまう。これから出会った時と同じ甘言で嫁入りを誘惑されるだけだろうと期待を萎ませた桃花に対して、男はたった一言だけ口にしたのだった。


香雪こうせつ

「こうせつ……?」

逢魔おうま香雪。それが俺の名前。さっき聞いておけば良かったって言っていただろう」


 誰にともなく独り言ちた言葉を聞かれていたと知って、桃花の顔はますます紅潮する。すると、香雪は桃花に顔を近づけて、顔の腫れが最も酷い箇所に軽く口付けを落とすと、誰にも見られないように桃花の顔を胸の中に埋めたのだった。


「腫れが引くまでこうしていろ。こんなみっともない姿を他の奴に見られてたまるものか。はぁ……こんなことになるのなら、あの時無理にでも攫っておくべきだったな……」


 心の底から桃花をこの家に帰したことを後悔しているように溜め息を吐く香雪に、桃花はおずおずと気になっていたことを尋ねる。

 

「どうして、ここまで優しくしてくれるんですか……? だって、私は貴方を殺しに行ったんですよ……」

「敵対者だろうが、犬猿の仲だろうが、鬼と人間だろうが、惚れた女に優しくするのに理由が必要か?」

「私には惚れるところなんて何もありません……。妹の方がずっと可愛いですし、弟のように教養もなければ、二人のように器量も良くないですし。鬼狩りなんて一度もしたことないですし」


 震える声で否定した桃花の肩を、香雪はますます強く抱き寄せる。

 

「あのな……。容姿だけじゃなくて知識や才能も、最初から身につけている奴なんてそういない。少しずつ磨いていくものなんだ。お前はまだ何もしていない無垢な存在なだけ。これから覚えればいい。俺のところで」

「貴方のところで……?」

「こんなところで飼い殺されて妖刀の生贄になるのを待つくらいなら、俺の嫁に来い。うんと愛して、たくさん知識を詰め込ませて、胸張って言える特技を持たせてやる。そうしたら自分に自信を持てるようになって、自然と美人になるだろう。どんな女にも負けない俺の自慢の花妻はなづまにな」

「花妻……」

「約束する。お前はこれから花のような美しい女になる。お前はここで妖刀の生贄になるような女じゃない。狩谷の連中が妖刀の生贄にしようとしたことを悔やむくらいの清廉で優雅な才女になる。その一歩を俺と一緒に踏み出さないか? 俺が絶対にお前を幸せにしてやる」


 香雪の言葉が胸にじんと浸透する。さっきの両親たちの態度で確信した。ここに居ても桃花は近い内に妖刀の生贄として差し出される。

 逃げるなら今だ。ここまで育ててもらった恩を全く感じていないわけではないが、香雪と出会う前よりは気持ちが失せている。この先に待ち受けているのが死のみと分かってしまったからだろう。生まれた時から自分を可愛がってくれた飼い主が、実は自分を食べるために育てていたと知って脱走を企てる家畜と同じような気もしてならない。

 でもそれなら食べるためではなく、鑑賞のために大切にしてくれる飼い主の元に向かいたいと家畜だって考えるだろう。今の桃花もそんな気持ちだった。

 香雪と共に鬼の領地に元に向かっても、結局は死しか待っていないかもしれない。それでも両親よりほんの少しでも香雪が桃花を愛してくれるのなら、香雪と一緒に行きたいと考えてしまう。


「桃花……」

「んっ……?」

「桃花って呼んでください。香雪……様」


 香雪の胸の中から顔を上げれば、香雪はよくやったと言いたげな満面の笑みと共に抱きしめてくれる。

 誰かに笑みを向けられることが、こんなにもくすぐったいものだと桃花は知らなかった。香雪の腕の中で桃花は早速一つ学ぶ。

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