Episode 56 聖母マリアの微笑み

 それから、どれ位の時間が経ったのだろうか? 

 けだるい感じが、僕の手足の神経の隅々まで染み渡っている。

 まぶたが重くて重くて、仕方がない。

 まるで、蜘蛛の巣が上から貼り付けられているようだ。

 身体全体が泥の中へと埋没していくような、そんな気分がする。

 身体が思うように動かない……。


 暗い暗い、闇の中。

 その中で、一筋の光が見えた。

 白くて淡い光。

 温かくて、全てのものを包み込むような優しい光。

 やがて、そこから声が聞こえてきた。

 それは、聞いていて思わずほっとするような、スカーレットの声だった。


 ――ディーン……。

 (その声は……君か……レティ……久し振りだな)

 ――目は覚めた? いつも早起きのあなたにしては、珍しくお寝坊さんね。

 (ああ、そう言われてもおかしくないな)

 ――大丈夫? 随分と疲れているみたいだけど。

 (いいや。変わらないさ。あの頃と)

 ――私、実はずっと見ていたのよ、あなたのこと。あなたったら、駄目じゃないの。私のことでそんなに引きずっていたら……

  

 声がどこか非難めいている。

 彼女は少し眉をひそめていそうだ。

 スカーレットにまで詰られ、彼は思わず苦笑した。 


 (面目ない)

 ――そりゃあ、嬉しいわよ。あなたにそこまで思ってもらえるなんて。女冥利に尽きるというものかしら? でも、それじゃあ、あなたのためにはならないわ。

 (……)

 ――やっと現れたみたいね。私があなたに伝えたかったことを、代わりに言ってくれる人。これでも私、安心しているのよ。

 (レティ……)

 ――もう大丈夫? 動けそう?

 (ああ。もう大丈夫・・・・・だ。色々心配かけてすまない)

 ――あなたの助けを待っている人がいるわ。早く行ってあげてね。

 (ああ。分かっている)

 ――それから。新しい相棒さんのこと、大事にしてあげてね。彼、私にはないものを持っているわ。きっと、あなたの助けとなる、大きな力になるはずよ――

 (……)

 ――私、ずっと見守っているから、あなた達のこと。それじゃあ、ロバート達に宜しくね――

 (……)


 光がまばゆく輝き出す。

 そして一瞬だけ見えた、スカーレットの優しい微笑み。

 まるで、全ての罪を赦し全てを愛す〝聖母マリア〟のような温かい笑顔だった。

 それはやがて真っ白な光に包まれた後、溶けるように静かに消えていって……。


 ◇◆◇◆◇◆


 ディーンが目を開けると、青灰色の瞳とピンク色の瞳が心配そうに見下ろしてくるのが視界に入ってきた。背中に感じる硬い床の感触。まだ若干、身体の奥底で重怠い感触が渦巻いているのを感じるが、感覚は少し戻ってきているようだ。


「……ここは……?」


 ゆっくりと身体を起こすと、両腕に真っ白なバンデージ包帯があちこち巻いてあるのに気が付いた。身体には大きめの上着がかけられており、額には冷却用シートが貼ってある。身体の痺れは、ほとんど残らない程度になっているようだ。


「研究所の通路よ。ディーン。さっきの嫌な場所からは離れているから、安心して」

「……ナタリー……」


 良く見ると、彼女の目元が赤く腫れている。自分達のことで、かなり心配させたに違いない。針で刺されたように胸が傷んだ。


「二人共良かったわ~本当に! 私本気で心配したのよ!!」

「どうだ? 身体の具合は?」

「……ああ。随分と楽になった。ところで、僕はどれ位眠っていた?」

「おおよそ一時間位だ。意外と早かったがね」


 (一時間も? のんびり寝ている時間なんてないのに……! )


 彼は額に貼ってあるシートを思い切り引き剥がした。充分過ぎる位、タイムロスである。心が掻きむしられるように、焦る気持ちが彼を急き立てる。そんな彼の気持ちを見透かしているのか、宥めるようにロバートはその肩に優しく手を置いた。


「我々は恐竜型のアンストロンだったが、そちらはまさかの巨大蜘蛛型だったとはな。しかも毒蜘蛛タイプとは……厄介だったな」

「……恐らく、先方は僕を殺す気でかかっているに違いない」

「否定はしないさ。あの戸を開けるためには、蜘蛛型アンストロンの動きを止めることが、一つの鍵だったようだ。外からは何をやっても開かなかった。あともう少し遅かったら、君達は危なかったかもしれない」

「……」

「念の為、私の独断で二人に即効性の抗毒血清を打っておいた。ただ、君達の体内に入り込んだ毒の種類が良く分からない。恐らく、症状的には神経毒の一種だろうと思う。一体どれだけ効果があるかの保証はないが、何もしないよりは良いだろう。共通の抗毒血清を持ち歩いておいて、正解だったようだな」


 常に危険と隣合わせな彼らは、亜空間収納に応急用の治療道具を装備させている。解毒用のキットだなんて、普段は滅多に使うことはないのだが、今回はそれが役に立ったようだ。


「ありがとう。手間を掛けさせたな」

「シアーシャ達が今、囚われている人達の場所を調べてくれているから、焦らなくて大丈夫よ。だって、私達の主な任務は拉致被害者の奪還ですもの!」


 ナタリーがディーンに、もう少し休むように促そうとしていると、突然緊張感が抜ける、不快そうなうめき声が下から聞こえてきた。彼の太腿の上に、温もりのある、妙な重みが加わる。


「……いってぇ……もぉ~何なんだよぉ……」

 

 視線を下に向けると、己の太腿の上にタカトの頭が乗っていた。

 恐らく、本人は寝ぼけているのだろう。

 ディーンは昔小さかった妹に、膝枕を良くしてやっていたことを思い出した。特に気にならないので、敢えてそのままにしておこうとすると、翡翠色の瞳が下から見上げてきた。


「……? あれ? ディーン? 俺一体……?」


 タカトは、がばりと上体を起こした。何故か、中学生の男子のように照れた顔をしている。


「悪ぃ悪ぃ!! 俺ってばいつの間に!? 足痺れてねぇか!?」

「いや。大したことはない」

「あらやだ! 抱っこやおんぶに飽き足らず膝枕まで……! どれだけ甘えん坊さんなのかしら! この四歳児の坊やったら!」

「……ナタリー……いきなりなんだよぉ。気が抜けるじゃねぇか……」

「そのまんまの意味よ! でも、もうすっかりいつものあなたに戻ったようで安心したわ」


 美人エージェントは腹を押さえて、こみ上げてくる笑いを堪えている。今度は嬉し涙をうっすらと目元に浮かべていた。


 ◇◆◇◆◇◆ 


 二人共動けるようになったところで、四人は行動を再開した。今いるところはまだ研究所の入り口付近のようで、目的とする場所は思っているより先のようだ。出来ればこれ以上は時間を無駄にしたくない。


 しばらくシアーシャ達が向かった後を追うように、通路をそのまま歩いていると、再び分かれ道が見えてきた。今度は右に道が増えている。そして、その先にまた銀色の冷たい戸が見えてきた。今度は何の部屋だろうか?


「? 何だ? この部屋……」

「調べてみる必要はありそうか?」


 今まで調べてきた部屋と同じような認証センサーが置いてある。他と似たような感じだろうと、タカトは手をかざしてみた。


「待て〝レオン〟! それは……」


 何かに勘付いたディーンが止めようとしたが、時すでに遅し。タカトの掌に反応したセンサーが赤く光った。


「え? どうした……って、うわっ!?」

 

 タカトの足元にぽっかりと空間が空き、あっという間に身体が吸い込まれ、ディーン達の視界からの彼の姿が搔き消えた。


 それは一瞬の出来事だった。

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