心優しきあなたの御名は / 竜と巫女の記憶

 外に出ると、光の眩しさに目を細めてしまう。

 そこにあるのは霧がかった森ではなく、燦燦と陽光が照らす美しい世界だった。

 円形に開けた真ん中に湖があり、小さな光が煌めく。

 そして、その中心にかの竜が上手に首を丸めて目を閉じていた。


 初めにやってきたのは安堵、次にやってきたのはその美しさへの感嘆だった。

「綺麗……」

 光の雫の中で穏やかに眠るその姿は、まさしく物語の挿絵のように美しかった。

 そこに恐怖心はやはりなく、あるのは敬愛だけ。

 この静かで美しい光景をずっと眺めていたい気持ちになる。


「……まったく。いつまで見つめているつもりだ?」

 穏やかながら悪戯な声が頭に響くのと竜の瞳が開かれるのは同時だった。

 真っ直ぐに竜を見つめていたから、目と目が合う。

「(えっ、起きて……)」

 今までの行動がすべて見られていた。

 そう説明する状況に言葉が出ない。

「あのっ、その、えっと……」

 腕を動かしながら懸命に違うと釈明するシリカ。

 それが面白かったのか、竜は穏やかな笑い声をあげる。


「ふふ、そう固くなるな」

 心なしかその表情も穏やかな笑みを浮かべているようで。

 とはいえ、恥ずかしいのは事実なわけで。

「(いやだって昨日の今日だし! ていうか顔あっついし……)」

 自分の顔が熱くなっていくのを感じて、それが更に恥ずかしいわけで。

「(ああもう何か言わないと……でもなんていえば……)」

 何とかしてこの状況を打開しなければと、ええいままよとシリカは声を上げた。


「で、ですがっ」

 しかし、この声が予想以上に大きかったのだろう。

 少女は更に顔を赤くして何とか取り繕おうとしている。

 竜にとって、その光景は実にあたたかく、懐かしくて、そして切ないものだった。

 だが、それを目の前の少女に見せるわけにはいかなかったから。


「悪かった、この通りだ」

 そう目を閉じて頭を下げる。

「あ、いえ! 私の方こそ申し訳ありませんでした」

 少女もぺこぺこと頭を下げる。


 ……それで終われば良かったのだが。

 続く「して──」という竜の言葉と「あの──」という巫女の言葉が同時に発せられたことによって、お互いが先を譲るという事態が発生してしまった。

 先ほど譲られている以上、このままではいけないと考えたシリカは一歩踏み出す。


「えっと、私からはお尋ねしたいことがたくさんありますので、お先にどうぞ」

「そうか。……ふふ、これでお互いに一歩譲ったな」

 あれやこれやと考えていた自身を見透かすかのような言葉に、少女は心がかき乱されるのを感じる。

「(もう! ダメでしょ私! さっきからずっとだよ!? ……っていうか、ちょっと遊ばれてない? 私。せっかく竜の巫女として振舞うって決めたんでしょ! しっかりしないと!)」

 悶々とする少女の頭に、あたたかく優しい声が響く。

「…………えっ?」

 少女は、その言葉を一度目で理解することは出来なかった。

 だってそれは──。


「身体の方はどうだ、痛みはしないか」


 ──竜の巫女になってから、聞くことのなかった言葉だから。

 あたたかな気持ちが溢れると共に胸が苦しくなるのを感じた。

 何故なら、そんな言葉をくれた人は、誰も自分が竜の巫女になるのを止めてはくれなかったから。それが必要なことだと言いたげな苦しそうな表情で、この胸に消えることのない傷を刻み込んだから。

 

 ──嗚呼、狡い。少女は竜の言葉に対して初めてそんな感情を抱いた。

 少女がおもむろに胸元に手をやるのを見て竜は続ける。

「その烙印は……消さずに残してある。それはそなたが竜と共に在る証だからだ。……だが、消したいのであればすぐにでも消してやれる」


 少女のはっとする。

 自らが、その胸に残る竜の烙印を忌まわしいものとしてではなく、縋りたくなるほどに心寄せていることに気づいたからだ。

 それを見て、己の心が締め付けられるのを竜は感じていた。

 元々、この娘はただの少女だった。

 それが、裏切られ、捨てられ、それでもなお生きることを選び、謂れのない責を全うしようと此処に辿り着いた。それは殆どの人間が出来はしないこと。それだけで十分すぎるほど。

 少女がそうしようと思えば、今ここでその傷を消し、新たに生きることも出来る。

 心の傷は簡単には癒えないが、それでも人と生きることは出来る。


 少女も同じことを考えていた。

「(もし、この烙印を消すことが出来たなら)」

 それはきっと、人の世界に戻れるだろう。

 誰も自分を知らない街で生きていけばいいのだ。

「(……でも、それは本当に幸せなの?)」

 裏切られ、捨てられたことで芽生えた想い。

 失って初めて知った平穏にして安全という幸福。

 それが不変ではないということへの恐怖。

「(それに……ここで私が立ち去るとして、この竜には何も返せていない)」

 その想いは、それまでのすべてを塗りつぶすほどに強く。

 自身を拾い上げ、救ってくれたこの竜に対して、せめて一つぐらいは恩返しがしたい。たとえそれが一生を費やすものであったとしても、あの人たちのようなことはしない。したくない。

 シリカの胸に芽生えたのは、竜の巫女としてではなく、人としての想いだった。


 長い沈黙の果て。

 傷の見える胸元、そこに手を当てたまま。

 静かに、しかし確かにそう口にした。

「……この傷、ううん、”証”についてはこのままでいいです」


「今の私は、あなたのことを何も知りません。……でも、ここでこの傷がなくなったところで私には帰る場所がありません。人を信じられる勇気もありません。……きっと、穏やかで幸せな未来があったとしても、私はそれを失う可能性に苦しむと思います」

 竜は静かにその言葉に耳を傾ける。

「それなら──私はあなたと生きることを選びます。いつ裏切られるかもわからない、不確かな未来を夢見るぐらいなら、巫女である私を救ってくれたあなたの傍にいたい」

 意思の滲む強かな言葉。

 だけど──と躊躇いながらに少女は続ける。

「……もし、もしあなたの傍を離れて生きる決心がついたなら、その時はこの証を消してください。……今はそれしか言えません」

 答えの出ないまま、しかしどう生きるのかを考え口にした少女。

 それは、心からの偽りなき言葉。

 迷いはあるもの。しかし、それは人として当然のもの。

 竜は、その迷いにこそ、安堵した。


「……そうか。ならば伝えておかねばならないことがある」

 少女を真っ直ぐに見据えて。

「吾はそなたを無理に引き留めるつもりも、そなたに何かを強いるつもりもない。そなたはそなたのまま、自由に生きることが出来る。そして、吾らの立場は竜とその巫女ではあるが、常に対等な関係である。それを努々忘れるな」

 その言葉は少女に対する敬意の表れ。

 少女の幸せを心から願う言葉。


「(やっぱり──)」

 この心の傷が癒えるかはわからない。

 だけど、目の前の竜が本当に自分のことを考えてくれていることはわかる。

 それも竜の巫女としてではなく、一人の人として。

 ──ならば、私も。

 朗らかな気持ちを噛みしめるように、頷く。

 美しき竜ではなく、心優しきあなたでもなく。

「それじゃあ……あなたの名前を教えてください」

 ──その名を呼びたいから。

 少女はその場所で初めて、心からの朗らかな笑顔を向けてくる。

 まったく、良い顔をするものだと竜も笑む。


「──クラウシュ。それが吾の名だ」


「クラウシュ……クラウシュ……」

 何かを考えながら何度か呪文のように繰り返すと、馴染む響きがあったのか確かめるように何度も頷く。

 そして、その翡翠色の目を真っ直ぐに向けて。

 満面の笑みを湛えて。

「それでは、これからよろしくお願いしますね! クラウシュ様」

 明るくその名を呼ぶのだった。


「ああ、よろしく頼むぞ。我が巫女シリカよ」

 青々と広がる空の下、命の恵みの光を受けて。

 竜と巫女の日々は穏やかに始まった。

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