吾が巫女 / クラウシュの記憶1
少女がその場所に辿り着いた瞬間。
その瞬間から、竜は霧の奥からその存在を認めていた。
そして、人が立ち入らぬようにと自身が張り巡らせた霧の結界を超えてきたことを不思議に思い、それが何者であるか明らかにすべきだと声をかけたのだ。
が、胸元に刻まれた烙印からすぐにその少女が何者なのかを理解する。
竜は、それが何であるかを知っていた。
「……巫女か」
だが、だからこそその心中は穏やかではなかった。
とはいえ、それは少女自身に向けられたものではなく。
むしろ、少女への物腰は穏やかで。
「であれば、名はなんという」
「……シリカ、です」
酷い声だった。ひび割れて息吹を感じない声。
息も絶え絶えになりながら、それでも応えようとして絞り出した音。
しかし、ここで新たな疑問が浮かぶ。
いくら巫女といえ、そのような状態の者がそこに跪く理由がわからない。
声音からは安堵の色を感じ取ることが出来るが、何故安堵しているのか。
人にとって竜とは、畏れるべき存在であり、半ば忌むべき存在なのに。
事実、”先代の巫女は此処に辿り着くことはなかったというのに”。
「(……もしや)」
一つの可能性に思い至った竜は、静かに霧を晴らしていく。
太陽さえ隠していた霧は竜の意のままにその身を引き、その場所には光が満ちていく。長い間晴れる事のなかった霧は、淀みなく光を招く。
静謐なる水面が穏やかに光の子らと遊び輝き出すその先に、その少女はいた。
みすぼらしい身なり。それが初めの印象だった。
陽光を吸い込んで美しく輝くはずの黄金色の髪はくすみ、その服は酷く汚れていた。色白の肌は傷に塗れて赤く染まり、幼さの残るその顔は、眼前に広がる光景に茫然としていた。
しかし、見開かれた翡翠の瞳だけは竜の目をはっきりと見据えていた。
竜はその目を逸らさず、それは少女も同様で。
竜はその交わりから彼女の魂を垣間見た。
「(──嗚呼、この娘は)」
その心根のなんと美しいことか、なんと憐れなことか。
少女が安堵していた理由も、何故この場所を目指していたのかもすべて理解する。
それは心を波立たせ、少女を丁重に扱わねばと思わせた。
何故ならば、彼女は此処に辿り着くべくして辿り着いたのだから。
姿を現した竜を見上げながら、少女は感じていた。
なんて、神々しく美しいのだと。
伝承で聞いていた竜は黒鱗を持ち、獰猛で残虐、生態系からは外れた存在だった。
でも、目の前に現れた竜は──。
白い鱗を持ち、温和で静謐という言葉が最初に浮かぶほどのもの。きらきらと水面に反射する光がその肌で緩やかに揺れて、清々しいほどに晴れた青空は、その白を際立たせる。
自らの数倍もの体躯にも、その存在自体にも恐怖心が芽生えることはなく、ただ眼前に佇む竜のその瞳を見つめる。紅い宝石のような、否、本当に宝石で出来ているのかと思ってしまうほどに鮮やかな瞳だった。
二つの竜において、唯一同じだったのは、生態系から外れた存在であるということ。絶対的な王者という事実だった。
「シリカよ、瞳を閉じよ。そして決して開くな」
後光を背にした竜の穏やかな声が頭に響く。
目を閉じると、何故だか心が凪いでいくのがわかる。
こんなにも痛くて苦しいのに、そんなものに囚われなくなっていく。
「そなたはよく耐えた。今は暫し休息が要る」
竜の顔が近づいてくる気配がする。
今まで張りつめていたものが少しずつ解けていくのを感じる。
強張る身体からは少しずつ力が抜けていく。
あたたかな感触が広がり、身体が軽くなっていく。
酷く心地の良い安寧が全身に満ちていく。
そして。
「そなたは吾が護ろう。吾が巫女よ」
額に優しく息を吹きかけられたところで、シリカの意識は沈んでいった。
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