『Erewhon』

 『郢ィ晢スャ郢晏ク厥ヲ鬯ァ――郢ィ晢スャ郢晏ク厥ヲ鬯ァ――』


 不協和音にしか聞こえない駅名をアナウンスしながら電車が停まり、ゆっくりとドアが開く。

 じっとりと背中に嫌な汗が伝う。

 焦りと不安がない交ぜになり、行動に遅延をもたらしていく。


 ここで降りるべきなのか?

 降りてしまっていいのか?


 正直な話、このまま電車に揺られていけば、どこに連れていかれるか分かったものではない。それこそ後戻りできない場所に運ばれて行ってしまうのではないのか。

 だが、この駅で降りたとしてもだ。

 車内からは得られない情報を入手できる可能性はあるだろう、しかし二度と電車がやって来ないまま、取り残されたら?

 降りた駅で得体の知れない何かに危害を加えられたら?

 グルグルと思考の底なし沼に落ちていく僕の耳に、か細いまよいの声が飛び込んできた。


 「……降りよう」


 彼女の言葉に頷き、僕らは足早に車両から飛び出した。


 降り立ったホームは光量が乏しく、ひどく薄暗い。

 所々に設置された電灯は、頼りない点滅を繰り返していて今にも力尽きそうである。

 僕らの他には人の気配はもちろん、生き物の存在すら感じ取れなかった。

 音もなく遠ざかっていく電車の後ろ姿に不安を掻き立てられながら、併設された階段を上っていくことにした。


 想像していたよりも小さな駅で、路線は今しがた乗ってきたものを含めて二つしか無いようだ。

 何か情報を集められないかと周りを観察してみるが、レイアウト意識の欠片もなく設置された自販機や、壁に雑然と張られたポスターは既視感のあるものばかり。そのどれもが幾重にも泥が被さったかのように薄汚れていた。


 唯一の希望とも言えた電光掲示板も、案の定文字化けされた点滅を繰り返すばかりだし、ポツンと突っ立っている路線図はおびただしい引っかき傷と思われるダメージが蓄積されていて、読み取ることは困難に思えた。

 ひと際大きな記載がされているのが、僕らのいる駅だと推測は出来るものの、読み方は分からない。何せアルファベットで記載されているのだ。いったい何語なのだろう。


 そこにはこう書かれていた――『Erewhon』――と。



 「どうなっちゃったのかな、私たち……」


 小刻みに震えるまよいの小さい右手を、僕は左手で優しく握り返す。

 駅に降り立ったことで何らかの情報が得られれば良かったのだけれど、生憎と成果はゼロに等しかった。

 不安がる女の子に優しい言葉などを掛けてあげられれば、男としては格好がつくのかもしれなかったが、只でさえ気の利かないダメ男な僕である。理解不能な状況に陥った今、スマートなエスコートに回せる気遣いなど、とうに在庫切れを起こしてしまっているのだ。

 故に、当たり障りのないセリフでお茶を濁すしか手立てはないのが悲しいところ。


 「まずは小さなことでも良いから、情報を手に入れないとな。ただ何が待ち構えているか分からないし、用心しながら行こう」

 「……うん、分かった」

 「まよい一人くらいなら、何とか守れるだろう……型落ちのクレーンゲームみたいに貧弱な男でもさ」

 「トーくん、根に持ってる?」

 「まさか、僕はそんなに器の小さい男じゃない」

 「その発言が既に……」


 うん。

 舵取りは強引だったかもしれないが、何とか軽口を叩き合える程に落ちつけたと見るべきか。

 コツコツとコンクリを鳴らす足音に若干の明るさを取り戻したところで、線路を跨ぎ階段を下り、改札とおぼしき場所まで辿り着いた。


 ここにも人の姿はなく、駅員が待機している窓口のガラスは固く閉ざされ、カーテンは閉め切られている。

 喉を鳴らして覚悟を決め、何度かガラスを叩いてみたものの、応答が返って来ることはなかった。

 僕らの眼前には電子改札ですらない、本当の意味での無人改札が腰を据えている。


 「気が引けるけど、通らない訳にはいかないよね」

 「だな……怒られたら後で謝ろう」


 相手のいない謝罪をしつつ、僕とまよいは改札を通り抜けて進んでいく。

 殺風景な待合室を抜け外に出てみると、信じ難い光景が広がっていた。


 「……悪い夢かよ、これは……」


 スマホの現在時刻は午後十一時半を回っている。

 だというのに、空の色は不気味なくらいに赤みが濃いオレンジ色で、生暖かい風が頬を撫でいていく。

 等間隔で並んだ建物は、定規で描いたものをコピペしたのかと思うほどに病的なレベルで規則的に並んでいて、一様にシャッターが降りていた。

 居並ぶ建物に目を奪われていると、隣にいるまよいが息を呑む気配を感じた。

 不思議に思い視線を下げた僕は、ギョッとして声を上げそうになってしまう。


 いつの間にか目と鼻の先に、腰の曲がったお婆さんが立っていたのだ。

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