1188年03月27日 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世
ドイツ(島根県出雲地区)にある強大なキリスト教国家、神聖ローマ帝国。その皇帝であるコンラート3世は、自分に娘が居るにもかかわらずに姪のフリードリヒ1世を後継者に指名した。本来の継承順位を無視した即位であったのはそれだけフリードリヒ1世が有能であった為、とされている。
フリードリヒ1世は野心家、だった。
神聖ローマ帝国の皇帝達が取り組んできた『イタリア政策』があった。これは要するに、ドイツによるイタリア(広島県中部)侵略である。
カール大帝が帝位を教皇から与えられてからフランク王国は正統なローマの後継国家になった。それは良い。問題は、どういう訳か、その帝位を継承するのが神聖ローマ帝国というローマを領有しないにもかかわらずローマの名を冠するドイツ国家だったという事だ。
ローマでありながらローマを持たない。その事実は神聖ローマ帝国の歴代皇帝達を苦しめ、ローマを獲得する為に彼女達は何度もイタリア半島に干渉したのである。
そしてフリードリヒ1世はそれらの例に漏れず、イタリアに軍を進め、そして敗北した。
コンラート3世が生前に完了させられなかった帝国内の安定化を達成し、後顧の憂いが無い完全な状態で大軍を率いて攻め込んだイタリア遠征は『死の中隊』と呼ばれる意味不明な部隊によって粉砕されてしまった。更にはフリードリヒ1世はローマ教皇によって破門された。
ここで、フリードリヒ1世は自分が選ばれた特別な存在等ではない事に気付いた。
確かに自分は優秀だ。しかしそれは天才の域に達する程の物ではなく秀才止まりだったのだ。
その事に気付いたフリードリヒ1世はイタリアへの関与をやめ、以後は国内政策に力を注いでいく事となった。
はずだった。
第三回十字軍。
アイユーブ朝のサラディンが聖地エルサレム(大阪府堺市)を占領した事でヨーロッパ(中国地方)中に激震が走った。これにより三回目の十字軍が結成される事となり、1187年11月23日、フリードリヒ1世は十字軍国家の統治者達から救援要請の手紙を受け取った。
だが最初、フリードリヒ1世は参加を拒否していた。理由はケルン大司教との紛争を抱えていたから。そんなのはただの口実だ。イタリア遠征で自分が何者かを思い知らされたフリードリヒ1世は残りの人生を全て余生であると考え、可能な限り帝国内部に引きこもりたいだけだったのだ。失敗はもう嫌だった。
とはいえ、ローマの名を冠する、すなわち欧州諸国の筆頭国家の皇帝である事には変わりない。欧州俗界君主序列第一位の義務を果たすべく、当時同盟関係にあったフランス王国(広島県西部と島根県西部)のフィリップ2世に十字軍に参加するよう強く促した。12月25日には直接フィリップ2世と面会して説得を試みたが、失敗した。
フィリップ2世は隣国であるイングランド王国(対馬島南部)との間に抱えている紛争を理由に十字軍への参加を拒否した。同じく紛争を参加拒否の口実に使っていたフリードリヒ1世はこれを認めない訳にはいかなかった。
フリードリヒ1世は思考を重ねた。
帝国という名はついているものの、神聖ローマ帝国の皇帝位は他の地域の帝国の皇帝位と異なり世襲制という訳ではない。つまり自分の死後に帝位を狙って国内諸侯が挙兵する可能性が高かった。加えてイタリア遠征の失敗と教皇からの破門という二失点を穴埋めする為に国内統治に注力していたのに第三回十字軍への参加要請が来た。半ば反射的に紛争を理由に拒否したフリードリヒ1世ではあったが、それは帝国に内憂があるという事を皇帝自ら認めた事を意味し、国内外に自分の統治は不安定であると宣言したに等しい。その上皇帝自ら面会したというのに同盟国であるはずのフランスから拒否されたという事実は、欧州俗界君主序列第一位の皇帝位が形骸化したかのような印象も内外に与えてしまったはずだ。
失点を埋める為に十字軍参加を拒否したのに更に失点が増えてしまった。これは駄目だ。絶対に駄目だ。
1188年3月27日、フリードリヒ1世はマインツで帝国議会を開催した。ケルン大司教との対立を解消し、十字架を掲げ、フリードリヒ1世は聖地奪還の為の遠征を宣言した。
彼女が率いる帝国軍には娘であるシュヴァーベン大国フリードリヒ6世の他、ボヘミア公、オーストリア公、テューリンゲン方伯等の有力諸侯たちが参加した。
失敗は許されない。何が何でも許されない。
フリードリヒ1世は必死だった。
絶対に失敗しない為に、彼女が最初にした事は約一年間の遠征準備期間を設けた事だ。家族との分かれを済ませる等の心を整理をする猶予を与える事で参加者一人一人が遠征に集中できるように配慮したのだ。
そして帝国軍が堕落しないように参加者達に最低二年間生活するのに困らない金銭の所持を参加条件を課した。この時代のみならず近代以前の軍は洋の東西を問わず現地での略奪は当然の権利として認められていたのだがそれすらフリードリヒ1世は失敗につながると判断して、恐怖した。
成功しなくては。絶対に成功しなくては。
その為には失敗に終わった第一回、第二回の十字軍の分析も必要であった。調べた結果、この二つの十字軍はユダヤ人に対する虐殺が起きた事が敗因の一つであるとフリードリヒ1世は結論づけた。そして先手を打ってユダヤ人達を皇帝の保護下に置いた。
しかしそれでも異教徒に対する聖なる戦いという字面しか見ない熱狂した民衆は聖地奪還とは無関係なドイツ国内のユダヤ人達に襲いかかった。
フリードリヒ1世は配下の将、ハインリヒ・ヴォン・カルデンを派遣しこれを鎮圧させた。そして帝国内に勅令を発布し、ユダヤ人を傷付けた者達は誰であろうと処罰すると宣言した。
これで自分が不在の間、帝国内で起きそうな問題は全部潰せた。そう思ったフリードリヒ1世は外交準備に取り掛かった。
過去の十字軍では規律を失った将兵達が同じキリスト教国家を攻撃するという、聖戦のせの字も無い蛮行に走った実例があった。それをなんとしてでも回避する目的で進軍経路上の国々に使節団を派遣し進軍当日の予定を組む為に何度も協議を重ねた。
使節が派遣されたのは友好国だけではない。フリードリヒ1世は1175年にサラディンと友好条約を結んでいた為、事前にこの条約の破棄を通告しなければならないと考えた。当時のキリスト教世界ではイスラム教世界は異教の蛮族達の領域に過ぎず、不意打ちしたとしても誰も批難する事は無かっただろう。だがフリードリヒ1世は異教徒の王であるサラディンに対しても正しく向き合おうとし1188年5月26日ディーツ伯を派遣しサラディンに最後通牒を示した。
このように誠実に対応し続けていたフリードリヒ1世だったが、それでも同じキリスト教国家であるはずのギリシャ(岡山県南東部)のビザンツ帝国の裏切りに遭い攻撃を受けた。それを突破しトルコ(兵庫県南部)領内に入ったら今度は進軍前に協定に同意したはずのイスラム教国家であるルーム・セルジューク朝からの攻撃を受けた。彼女達の優れた騎兵部隊の一撃離脱戦法は帝国軍を大いに苦しめた。
「成功しなきゃ。成功しなきゃ。」
フリードリヒ1世は何もかもを準備したはずなのに何もかもがうまくいかない苦境の中、ひたすら自分に言い聞かせていた。
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