【5】
「さぁ…ここだよ、円香ちゃん」
「わぁ…」
エレベーターを降りると、眼前には壮大な岩山と滝が広がった。緑に覆われた岩場では鹿が何かを頬張っている。
「どう? すごいでしょ?」
「はい…! こんな所…初めて来ました!」
滝の音が心地よい。淀んだ空気の教室とは違って、ここはとても安らぎを得られる。そんな気がする。
「アタシね…何もかもがイヤになっちゃったら、いつもここに来るんだ」
「なんかどうでもよくなるの…全部」
「帰る頃には何で悩んでたのか忘れちゃうぐらいね」
観瀑台のベンチに腰掛け、景観を味わう。
遠くの空には入道雲が佇み、滝壺には虹がうっすらと架かっていた。
「あっ! 蛍さん蛍さん! 虹ですよ虹!」
「わぁ…綺麗だね…!」
好きな人と二人、のんびりと幸せを共有する。こんなにも幸せな時間が永遠に続いてほしいなぁ…だなんて考えて、無意識に想い人に寄りかかってしまう。
「ってわあぁ!? すみません…あの…その…」
「ん? 別に良いけど? 両思いなんだし恋人同士みたいなものでしょ?」
「いや…でも……うぅ…」
どうしてこの人はそんな爆弾発言を軽率に口走れるのだろうか。
「あ、でも正式な恋人になりたいなら告白は円香ちゃんからしてね」
「いや…ちょっと…難しいですって…」
「えぇ〜…じゃあ『大好きです。付き合ってください!』って言ってくれたらキスしてあげる」
「……うぇえ!? き…キスですか…!?」
「うん、ご褒美があったら頑張れるよね?」
「ち…ちょっと心の準備がですね……」
「もう、円香ちゃんの意気地なし…」
頬をぷくっと膨らませ、蛍さんは不満げに私を見つめた。
「……そんなに見つめられちゃ…恥ずかしいですって…」
滝が夏の暑さを和らげ、七月に見合わぬ涼しい風が吹き、樫の葉が揺れる。
そして私達はゆっくりと腰をあげ、駐車場へ向かうのであった。
エレベーターは本日も絶賛稼働中だ。
駐車場に着いたのはちょうど十一時半であった。
真夏の太陽に焼かれて車内はかなり暑い。
「じゃ、どこかでお昼にしよっか」
「ところでこの近くにご飯屋さんはあるんですか?」
そもそも私はここが何処なのかすら知らない。ホントに何処なの…?
「うーん…コンビニぐらいしか見当たらないわね…」
スマホを片手に蛍さんは髪を耳にかけた。イヤリングが陽の光に煌めいている。
「……私は何処でも良いですよ」
「…じゃあコンビニで手軽に済ませよっか」
まぁ贅沢言ってられないし、仕方ないか。エンジンを駆け、滝の駐車場を後にする。それから私達は最寄のコンビニへ駆け込み、昼食を調達した。蛍さんはアイスも買ったようだ。
「はい、円香ちゃん」
「へ? つべちゃッ!」
「な、何するんですかぁ!」
森永のチューブ型氷菓の片割れをいきなり頬に押しつけてきた。こういうのはシンプルにびっくりするので控えていただきたいものである。
「あはは…ごめんごめん」
「だって、円香ちゃんが可愛いのがいけないんだよ?」
「…!? かかか可愛いって「照れてる顔も、いつもの顔も、全部可愛いわよ」
「うぅ〜!……」
いきなりなんてことを口にするんですかねこの人は…
「早く食べないと溶けちゃうわよ?」
「わ、わかってますって!」
慌てて一気に食べたもので、案の定頭がキーンとした。
「うぐ…っ」
近くの街路樹にへばりついた蝉が耳障りだ。頭痛と騒音の二重苦に脳髄が悲鳴をあげる。
「食べ終わったらゴミちょうだいね、アタシのとまとめて捨ててくるし」
一悶着?あったものの、ランチは和やかに終わりを迎えた。
「お願いします」と、ゴミをレジ袋に押し詰め、蛍さんに手渡す。
「じゃあちょっと待っててね」
「はーい」
さっき買ったミネラルウォーターの成分表記を眺めながら返事をする。
「…………」
スマホでネットニュースを流し読む。すると、女性旅行客を狙った犯罪に関する記事が目に留まった。
『抵抗できなさそうな女性を狙った』という犯人の供述を見て背筋がゾワっとした。実際、私に関しては、見ての通り貧相な身体をしているだけでなく、運動もまるでできないので、私はその条件を完璧に満たしていた。蛍さんもどちらかと言えば私側の人間であろう。多分。
「これ…やばいんじゃ…」
「何がやばいの?」
蛍さんが戻ってきた。
「このニュース見てくださいよ……」
「あぁ〜…まぁアタシ達は心配いらないよ」
「え? 何か防犯グッズとかあるんですか?」
「あるわよ」
やっぱり蛍さん、準備がいい。
「なんですか? やっぱり催涙スプレーですか?」
「スタンガンだけど?」へぇ〜スタンガンかぁ〜
「ってスタンガンですか!?」
「どこでそんな物騒なモノを…」
「何処でって…ネット通販だけど?」
「いや…まぁ…はい……有事の際はよろしくお願いします…」
「じゃあ頼もしい防犯グッズくんの紹介も、ランチも済んだことだし、そろそろ出発しよっ…ッ…うっ……」
蛍さんは突然腹を押さえて苦しみだした。血色のよかった顔はみるみる青ざめ、額に汗を滲ませている。
「大丈夫ですか?」
「…えぇ 問題ないわ…ちょっとお腹冷えちゃったみたい…」
「トイレ行きますか?」
「いや、大丈夫、落ち着いてきた…」
しかし、苦しげな表情は変わっていない。
「……と、とりあえず出発しましょ?」
「え…えぇはい…」
少々蛍さんの体調が心配だったが、私たちはコンビニを出発した。
次の目的地は宿泊予定のホテル。少々遠方にあるのがネックだが、明日の移動には好都合だったらしい。
ちょっと長めのドライブに回想録を添えて、私たちは逃げ続ける。
これは忌々しい事件が起きてちょうど一ヶ月経ったぐらいからの話。
ぶっちゃけ君の存在が無かったら、アタシはもう首を括るなり、身を投げるなり、練炭に火をつけるなりして死んでたと思うんだ。ありがとうね。
『ねぇねぇ聞いた? 長井さんのお父さんとお母さんって殺人鬼なんだって』
違う。違うのに。
『えぇーうそぉー怖いわー友達や―めよ』
……………そう………
『A組の例のあの娘、精神病になったお母さんを毎日虐待してるって聞いたよ』
…………なんで…違う……そんなの……
『えぇ…長井ってあの殺人ヤローだろ? 確かに顔とカラダは良いけどよぉ…ぜってぇ刺してくるぜ』
『あのなぁ…そんなことを先生に言われても俺はどうしようもないんだわ…』
『そもそも長井は俺に何をしてほしいん?』
『お前が『いじめ』をしてくるって言ってるアイツらはみんな真面目で優しい子たちじゃないか…』
『俺はアイツらがそんなことをするとは思えないし、何より俺はアイツらを信頼しているんだ…』
『はぁ…お前はアイツらのイメージを悪くして、自分を有利にしたいのかもしれんがなぁ…』
『しっかり真っ向勝負しようぜ?』
……………どうして誰も…アタシを…………
………もうこの学校に居場所はないな……
……円香ちゃん……まだアタシのコト覚えていてくれてるかなぁ………
……母さん、ほら、ご飯食べてよ………
『……ゥゥ…あ……ぃたい…こないで……』
………母さん…………
……あぁ…眠いなぁ………なんでアタシだけ……こんな…こんな………
あの、『うわっぁああ!! 殺さないでくれぇ(笑)』『ハハハハハハアハハ』
………………
『えぇ〜でも由美子ちゃんって一年生ん時に長井さんと友達だったんでしょ?』
『まさかぁ…そんなの一緒に居てたらおこぼれでモテそうだったから友達のフリしてたに決まってんじゃん〜』
『うっわぁ〜ゆみみん最低ぇ〜』
……ホントにね……………
……あれ、可笑しいなぁ…
……母さん………母…さん…?
『………………』
…………………………
『お前が殺したんだ!!この人殺し!!』
『実の母親を殺すだなんて何考えてるの?アナタは一族の恥よ恥!とっとと首括って死になさい!』
『お前が学校に行かず、身売りでもして金を稼いでいれば俺の妹は助かったんだぞ!!自分の犯した罪の重さを
……………ぅ…ぅぅ……アタシじゃないのに……
……アタシはもう独りぼっちなのかなぁ………
………でも…円香ちゃんだけは……アタシの味方でいてくれるはずだよ……そうだよね…
……合格かぁ……本当は家族や友達と泣いて…喜びあうんだろうなぁ……
………まぁ…流石に……ね…
…………やっと卒業かぁ……長かったなぁ……
……これでちょっとは救われるのかな……
………アタシは撮らなくても良いよね…誰も見ないし……家族も…もういないし……
『おいおい今年の一年にスッゲェ美人がいるみたいだぜ!』
『あぁ〜…そいつさぁ…サークルの後輩が言ってたんだけど親を…殺したん…だっけな? あと枕でココ入ったらしいぜ』
『うわっ…アイツって長井だよなぁ…?』
『でもあの娘の苗字、石寺って書いてたぜ?』
『どうせ母方の苗字名乗ってますぅ〜的なアレだろ』
『あぁ〜なるほどお前探偵かよ天才じゃねぇか!』
………やっぱここもだめだったかぁ……
…………なんでアタシなんだろう…………
………もう楽になりたいなぁ…………
……でも…アタシは…まだ円香ちゃんに……
『そう…辛かったわね…あーしが石寺ちゃんのこと守ったげるから…』
『おっ! 殺人犯じゃ〜ん元気してた?』
『よくバイトの面接通ったね? もしかしてまた枕した? ハハハ『ちょっとぉ!アンタたちぃ!何あーしの可愛いバイトちゃんに手ぇ出してんの!』
『ほら!さっさと逃げな!』
そしてアタシは円香ちゃんと再会することになるの。あの黄昏時のバックヤードで。
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