【4】

―――ピピピ…ピピ…ピピピ…

「ッ…うぅん……」

 うるさい……

―――ピピピ…ピピピ…ピッ…

 スマホのアラームを停め、伸びをする。朝日が眩しく瞳を刺す。普段は憂鬱な朝が、今日は幸せな朝のようだ。

 身支度を整え、蛍さんの迎えを今か今かと待ち侘びる。

 九時半の住宅街をいくつかの車両音が駆け抜け、そのうち一つに蛍さんが居て、私の家まで来る様子を妄想しては、音が遠ざかるので、勝手に期待して落胆するのを繰り返す。

 だが遂に期待通りの音がしたようだ。

 ぴんぽんと玄関先でチャイムが鳴り、どたどたと慌ただしく玄関を開ける。

「おはよう円香ちゃん」

 陽の暖かなひかりに包まれた彼女の耽美なコト…「おーい!どうしたのー?」

「わぁっ…あ、おはよう…ございます」

「もう…緊張してるの?」

「あ、いえ…まぁ…はい…」見惚れてましただなんて言えやしない……

「別にアタシなんだから緊張する必要なんてないよ?」

「あ…アタシにじゃなくて旅にか……コレは恥ずかしいコト言っちゃったな…」

 蛍さんは赤面し、はにかんで微笑む。

「いえ…両方ですので…」

 本当は別の原因があるのだけど……私はうそつきだね…

「あらそう? なら良かった…のかな?」

「ま、気楽に行こ? 円香ちゃん」

「はい!」

 鞄をトランクに詰め込んで助手席に乗り込む。

「シートベルトは締めた?」

「締めましたよ」

 蛍さんは頷くと、エンジンを掛けた。ガソリンはほぼ満タンのようだ。

「じゃあ…しゅっぱ〜つ!……ってもう!円香ちゃんも言って!」

「えぇっ!?…しゅ…しゅっぱつぅ~…」


 こうして私たちの旅、もとい逃避行が始まった。

 そういえば今更ながら、『私と逃げて』だなんて告白紛いのコトを言い放ってしまっている事実を思い出したので、密かに赤面し、逃げるように車窓の外を眺めた。 

「そう言えばさ、円香ちゃんってアタシのコト好き?」

「うぇッ…!? あだっ…きゅ…急になん…何をい言い出すんですか!」

 驚きのあまり、窓に頭を打つけた。

「わぁ! 大丈夫? 円香ちゃん?」

「い、いや頭は大丈夫ですけど…その…」

「大丈夫? 大丈夫なら…良かったぁ…」

 正直心臓が爆発したんじゃないかと思う程の衝撃だった。車だけでなく、蛍さんも安全運転でお願いしたい……私がもたない……

「……で、どうなの? アタシのコトは」

「……ぅ…こた…答えかね…ます…」

「もぉ…はぐらかさないでよ…」

 流石に無理がある…

「…じゃ…じゃあ逆に、蛍さんは私のコト…どう思ってるんですか?」

 こういえば流石の蛍さんも引き下がってくれるだ「好きだよ?」

「ふぇ…!?」ちょっと待って思考がおいつ

「もちろん恋愛的な意味でね」

「いや、ちょっと待ってください…いきなりどうしたんですか…?」

「だから…円香ちゃんはアタシのコト好き?」

 まるで話が通じない…ここまできたら腹を括るしかないのだろうか…?

「す…」

「す?」

「……好き…です…けど…」

 ……遂に……遂に言ってしまった……

「ふふっ…そっかあ…アタシのコト好きなんだ…」

 蛍さんは、しっかりと前を見据えて安全運転に努めながらこのやりとりを交わしている…対照的に私は耳まで真っ赤に染めてうずくまっている。

「うぅ〜…」

 羞恥のあまり顔を両手で覆い、唸り声をあげる。

「ごめんね? ちょっといじわるしちゃったね…」

 信号に引っかかり、蛍さんはこちらに顔を向けそう言った。

「ちょっとどころじゃないですよぉ…」

 半分涙目になりながら、頬を膨らませて蛍さんをにらんだ。信号機は黄色を示し、すぐに青く光った。

 蛍さんは少し笑って私の涙を細く白い指で拭うと、アクセルを踏み込んだ。

 鼻水をすすり、目元に残った人肌の温もりにそっと触れる。優しい温度はあっという間に融けて消えた。


「そういえば…私に話…聞かせてくれるんでしたよね…?」

 建前とはいえ、元々の理由の一つではあるのだ。ここまできたらとことん教えてもらおう。さっきの恨み?も込めて投げかける。

「あぁ…そう言えばそうだったわね…」

 少しばかり表情が曇る。

「じゃあ円香ちゃんと行きたい場所があるから…目的地に着くまでの道中に話すね」

「ってことは…」

「えぇ…早速話してもいいかしら?」

「はい、お願いします」

湾曲したダムの天端を通過する。水面が太陽をギラギラ反射して眩しい。ちょっと素敵な七月の風を切り裂いて、私達は進む。




 それは突然だった。どうやらアタシの両親は急に不仲になったらしく、離婚するだのなんだのって騒ぎ立てている。まさにおしどり夫婦といった仲だった両親がである。

 二人の会話を盗み聴いた限り、父さんが不貞をはたらき、母さんは相手の女を刺して病院送りにしたらしい。


『蛍はどっちについてくるんだ?もちろん父さんだよな?』

『何言ってんのよ巫山戯ふざけないでちょうだい蛍ちゃんは私の娘よアナタなんかに親を名乗る資格はないわよ!』

『なんだとこのクソ女が!誰のおかげで今まで飯食ってこられたと思ってんだこのッ!『ぎゃあああぁぁっ!!痛い痛いやめていたぃやめてやめ』



 父さんは口論の末、母さんを廃人にしちゃった。

 脳みそが傷つくぐらいに頭を殴ったんだって。

 父さんは今も刑務所にいるらしい。壊れちゃった母さんとアタシを残して。

 最初は母さんを施設に預けようと思ってたんだけど、色々な制度を使っても料金を払えないぐらいに我が家の貯金は少なかった……どうやら父さんが不倫相手に貢いでいたみたい。しかも母さんが刺しちゃった治療費でさらに持っていかれちゃったからもう貯金は殆どなくなっちゃった。

 父方の親戚は父さんの裁判で大忙しみたいだから、仕方なく母方の親戚を頼ろうと連絡を取ったんだけど、お祖父ちゃんはもう墓石の下だしんじゃってたし、お祖母ちゃんは認知症で介護施設。

 そしておじおばの皆様は口を揃えて

『ヤングケアラーなんて今の時代沢山いる』

『お前より小さい子供だって親の介護をしているのにお前だけ楽をするのか?』

『子が親の世話をするのは当然の事だ』

って言ってたよ。理不尽だと思わない?

 結局アタシに残されたのは僅かなお金と壊れちゃった母さんだけだった。でも、父さんの弟さん…私の叔父さんが同情からか、高校の授業料とか諸々の費用、引越しの資金と引っ越し先を援助してくれたから、それでなんとか今までやってこれたんだ…。

 これがアタシの引っ越しの顛末。




 「ちょうどきキリの良いとこで目的地に到着だね」

 蛍さんは涼しげな顔をしているが、おそらくその裏側はひどく悲しい表情をしているのだろう。

「…………」

 余りにも壮絶な事があんなにも身近な場所で起きていたという事実を受け入れられそうにない。

「蛍…さん…それで…それでお母様はどうなさったんですか?」

 デリカシーのない発言をしてしまったなぁ…と後悔。

「ん? 母さんならもう死んじゃったよ?」

「え…?」

「二年前、気づいたらもう冷たくなってた」

「………」

 どんな言葉を返せば善いのかわからない…脳裏に浮かぶ数多の言葉の全てが相応しくないように感じる。

「あはは…コメントに困っちゃうわよねぇ…」

 蛍さんは何処か憂いを帯びた瞳で苦笑した。

「まっ、こんなに素晴らしい場所に来たんだから景色を楽しもうよ! ね?」

「はい…」

 夏の匂いが鼻腔をくすぐる緑に囲まれた山中。蛍さんはスタスタと山道に入る。

「待って、置いてかないでくださいよ〜」

「なんて言ったのー?」

 少し遠くで紅く口紅が輝いた。

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