【3】

 あの日、アタシと円香ちゃんが再会した記念日に結んだ二人だけの約束…『逃避行』の実行日はいよいよ明日に迫ろうとしていた。

 それにしても、まさか円香ちゃんの方から来てくれるだなんて、夢にも思わなかった。

 本当はアタシから偶然を装って近づくつもりだったのに……まぁ結果良ければ全て良しということにしておこう。

 けたたましい蝉の愛の叫びに共感した後、宙をひらひらと舞う蝶に円香ちゃんのリボンを想起し、ふと写真立てに映る小学生の頃の円香ちゃんを見つめる。はにかむ彼女の後頭部には今と同じく大きなリボンが揺れている。

 いつ見ても狂おしい程に愛しい円香ちゃん。アタシの天使は今、何処で、何をしているのだろうか。そんな事を別れた三年前のあの日からずっと考えている。

『アタシ以外の誰かの恋人になってやしないか?』

『もうアタシのコトを忘れてたのならどうしよう…』 

 そんな杞憂も明日でお終い。もうあの子とアタシ。二人っきりの旅だ。

「早く明日にならないかなぁ〜…」

 円香ちゃんもそう思っていてほしいと唯強く願う。

「さて、明日に向けてお掃除しなきゃね…」

 そうしてアタシは足元に転がった空き缶を拾い上げた。外では今際の際、蝉が断末魔をあげた。



 明日のことを考えると、学校の授業などただの雑音に成り下がってしまう。このつまらない授業も先週までの私なら楽しめた筈だったのに。全く、罪な人である。

「………………」

―――ラの匣』という小説は太宰に傾倒していた木村しょ…おい、原山! 聞いてるのか?」

「…あっはい…聞いてませんでした……」

「聞いてるなら善し……いや待て今なんて言った?」

 教室にケラケラと薄っぺらな笑いが響く。

 まぁでも、もう数時間で明日なんだから…明日でもうお終いなんだから…もう少しだけ、退屈な時間を過ごしておこう。私は好きなモノは最後に食べる派なんだから。

 そうこうしているうちに、今日の最終授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、クラスの面々は親しい者達と言葉を交わしつつ、各々の目的…部活動や自習室へと向かう。無論、私もその一人だ。


「お〜い!! まどっちぃ〜 バイバァ〜イ」

 ……ひどく煩わしい声が鳴り響いた。

園子そのこ、また来週ね」と、できる限りの愛想笑いを添えて真っ赤な他人を見送る。

 地に墜ちた蝉が蟻に齧られて痙攣している。あんな最期は嫌だなぁと吐き捨て、真っ直ぐ帰路につき、いつもの快速列車に乗り込んだ。

 入道雲は夏風に流され、何処かの誰かが夕立に憂いだ。

 黄昏時の車窓には、いつもよりちょっと嬉しそうな私が映っている。それは誕生日を控えた幼な子のような、自分でも久々に見る表情であった。

―――まもなく城詰しろつめ、城詰です。お出口は左が…


 今日の各駅停車は定刻通り到着すると、電光板が言っている。下校途中の中学生が騒がしい。

 流された入道雲に追いついていたのか、夕立がホームの屋根を叩く音がする。傘は持っていない。

 駅から家までどうしようかと考えていると、既に多くの人でいっぱいの各駅停車が二番乗り場へやってきた。


 相変わらず、満員電車は息苦しい。咳き込んだ中年の会社員は睨まれ、老婆は座れず苦しそうだ。優先座席の若人はイヤホンで耳を塞ぎ、居眠りを決め込んでいる。

 ある意味、社会の縮図なのかもしれないな、と心の中で呟き、吊り革をぎゅっと握りしめた。

 外の景色を見ようとしたが、生憎私は背が低く、前に立っている中学生の背中しか見えなかった。仕方なく、電車内広告を見て暇を潰す。大学のオープンキャンパスや、『このプランならお得!』としつこく謳う鉄道旅行のモノが多くを占めている。

 広告を眺め続けて七分ほど経ち、この鈍行列車は降車駅…もとい自宅の最寄駅にようやく到着するようだ。

 降り遅れないように、流れに乗って速やかに下車する。やはり、私の頭上には分厚く雨雲がかかり、夕立がいなないている。傘もないのに…どうしたものか。

「あら…?」

 ふと聞こえた声の主を探す。

「円香ちゃん〜!」

「えっ!? 蛍さん? なんでこんな所に…」

「なんでって…バイトの帰りだけど?」

 ああ…成程成程…合点がいった。

「そういえば私達のバイト先って最寄駅ココでしたね…」

「うんうん、あっそういえば円香ちゃん」

「なんですか?」

「雨具って何か持ってる? 無いならアタシの貸すよ?」

 …! なんという僥倖だろうか。

「ぜひお借りしたいですね…危うくびしょびしょになるところでした……」

「よかったぁ〜風邪引いちゃったら明日の予定が総崩れだもの」

 もし今、女神を何処かで見なかったか? と聞かれたら、迷わず『私の目の前にいる』と答えるだろう。

「でも…私に貸しちゃったら…蛍さんはどうやって雨を凌ぐんですか?」

「あぁ〜その点に関しては心配いらないわよ」

「どうしてです?」

「何故ならアタシには折畳の日傘があるからね えっへん!」と、ドヤ顔を決めた彼女。いつものアダルトな美を纏った顔がなんだか幼く、可愛らしく見えた。


「それじゃあね 明日、家まで迎えに行くから…待っててね……円香ちゃん」

「はい…また明日です」

 ビニール傘を受け取り、別れの挨拶を交わす。

 そして私達は反対向きにそれぞれ歩を進める。ホームと、改札と。


 改札を抜け、駅の外へ出る。仄かに熱の残る傘をさして、家へと歩く。

 蛍さんの熱を私の体温が上書きしてしまうのが勿体なかったが、まぁ仕方ない。と片付けて横断歩道を渡り切った。

 夕立はもう止んだらしい。でも、もう少しだけこの傘をさしたまま歩こうか。

 小さな雨蛙が轢き潰されて横たわっている。その惨状を見て尚、蝸牛かたつむりは呑気に湿気ったアスファルトを進む。

「あ…」

 ぱきりと不快音が風に乗って紫陽花あじさいの葉を揺らし、雫がぽつりと骸を弔う。

 目を伏せ自宅を目指す。これもまた仕方ない。

 そう片付けて忘れてしまおう。私には明日の準備があるのだから。

 そういえば、蛍さんは旅の荷物について、ある程度のお金と三日分ぐらいの衣服と言っていたが、何処まで、どの位の期間逃げるのかは未だ聞いていなかったな……私は何処までも何時までも、蛍さんと二人で、死ぬまで生きたいと思ってるけどね。


 駅を出て十分ほど経った。目の前には見事に空っぽで、最後のピースが一生埋まらない自宅がある。

 がちゃりとドアを押し開けて、家へ入る。冷房は効いておらず、蒸し暑い。雨上がりの虹は好きだが、この蒸し暑さだけは戴けない。

 セーラースカーフを外し、スパッツを脱ぎすてる。

 行儀は悪いが、この家には私一人だ。何より、私はもう悪い子になるんだし、もういいでしょう。

 扇風機をつけ、窓を開ける。湿った風もこの暑さに比べるとまだマシであろう。

 手を洗い、明日の準備に取り掛かる。

 とりあえず服を旅行バックに詰めようとクローゼットを漁る。が、ここで思わぬ問題が発覚した。長らく学校とバイト以外で外出していなかったために気付かなかったが、私には中高の制服と寝巻き兼部屋着のジャージ、伯母さんが高校の入学祝いで買ってくれたよそ行きの一張羅ぐらいしかまともな衣服がなかったらしい。……流石に下着はある。

 それ以外の服は殆ど小学生が着るようなデザインのモノばかりであった。憎たらしいことにまだ着れてしまうが。

 仕方なく制服を畳んでバックに詰め込む。寝巻きはいつも通り中学校のジャージでいいだろう。しかし、ファッションを全く気遣わない私を見て、蛍さんはなんと言うだろうか。拒絶されたらどうしようか…と恐ろしくなる。

 まぁ…あの部屋の惨状を見たら、蛍さんも私のコトを言えない身だろうし、うん。大丈夫。多分。


 浴槽に湯を張るのが面倒で、シャワーで冷水を浴び、頭を洗う。そして泡を流して、左脚から順にボディーソープを纏ったボディタオルで洗っていく。

 鏡に映った肢体は肉付きが悪く、あばらが浮いている。その上肌は青白く、まるで死体のようである。

「……寒い」

 冷えた手足を温めるように身体を拭き上げる。湿気った髪をドライヤーで乾かし、おきにいりのリボンで雑に纏め上げる。夕餉をとる気にはなれず、栄養剤を水道水で飲み込む。カルキ臭が不快に鼻を突いた。

 歯磨きを済ませて寝巻きを纏う。そして荷造りを再開する。


 明日の荷造りを終えるとどっと睡魔が襲ってきた。ベットには大きなウサギのぬいぐるみが一足先に眠っている。私が二歳ぐらいの時に私の両親が買ってくれたモノだと、伯母は言っていた。

 今日も私は彼女を抱いて眠る。

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