第17話 小さな決意に花束を





「ん。まあいいんじゃないか」

「ありがとうございます。ではこれで進めさせていただきます」


 田辺が頭を下げて、課長の席から離れていく。俺が楯突いたあの日から、課長はどこか俺と田辺に余所余所しくなっている気がした。


 しかしその一方で、田辺のカドが取れていた。根本的な解決かどうかは分からないが、少なくともこれまで発生していた説教はいつのまにか消え、俺の部署には突如として平穏が訪れた。


(まあ、そもそも最初から田辺が引き下がることを覚えれば、問題なんて起きなかったんだけどな)


 悪くなくても頭を下げる。それはある意味で組織を円滑に回す大事な儀式的行為なのだ。俺はそんな事実を再認識しながら、この前あいつと飲んだことを思い出す。


『まあいいんじゃないんですか。別に。どうせ部署も変わるし、ほっとけば話すこともなくなりますよ』


 田辺は俺に対してそう言った。


 確かにわざわざ祝いの言葉を、それも少し期間が空いてから言う必要は無い。彼女からすれば急に言われても戸惑う部分が大きいだろう。


 だが、それでいいとも思わない自分がいた。彼女のためではなく、俺自身のために、言わなくてはならない。それが独りよがりだったとしても。


 そんな考えが、頭の中にずっと残っていた。







「石田さん、聞いてください!最終選考まで行きました!それも二社もです!」

「まあまあ落ち着きなって」


 新宿のとあるファミリーレストラン。そこの窓際の席で俺は野村遙香と会っていた。


 夏真っ盛り。19時を少し回ったところだったが。まだ外は明るさを残している。道行く人はこの時間であっても暑そうにしており、空調の効いた店内はまさしく天国のようであった。


 今日彼女と会ったのは面接の練習のためというわけではない。ちょっとした気晴らしのために彼女の話に付き合うといった感じだ。たまたま久しぶりに連絡したら、彼女も丁度面接が終わった所だったらしく、現状確認がてら食事をごちそうする運びになった。


 喫茶店での一件があったからだろう。彼女は最初の数分はどこかぎこちなかった。だが俺の方から「気にするな」と言った後は、いつもの通りの様子に戻っていった。


(むしろ俺に慣れたせいか、前より明るく振る舞ってる気がする。まあ彼女の素に近づいていっているってことだろうが……。面接相手としては、あんまり親密になりすぎても緊張感に欠けてしまう気もするな)


 だが、正直面接の方は、あまり心配はしていなかった。というのも、ここ最近に至っては彼女も大分慣れてきたのだろう。面接の内容も、話し方も、十分すぎる程に上達しているのだ。


 元々素地はあった。磨きさえすれば、どこだって欲しい人材になる。ただそれだけのことであった。


「まだ受かったわけじゃ無いでしょ?」

「うっ……まあそうですけど」

「他の企業は引き続き受けてるの?」

「はい。一応落ちたときの事を考えて、いくつかエントリーしてます」


 彼女はそう言ってドリンクバーで入れてきたオレンジジュースを、少しだけ口に含む。一応落ちたときの事を考えて動けていることは、間違いなく成長の証だろう。


(とはいえ、またここから選考をやり直していくのはキツいだろうな)


 俺としても、ここで受かって欲しいのは言うまでもない。それに、今受けている二社は調べてみた範囲では業績や就職サイトの口コミが良く、彼女自身も入りたい気持ちが強いようであった。第三者の俺から見ても、悪くないようにみえる。少なくとも現時点で残っている企業の中ではかなり良さそうな部類であった。


(まあ実際、ここまで来ればそう落ちることは無さそうではあるが)


 俺自身、就活に詳しいわけではない。だが、いわゆる超人気企業の採用は既に終わっており、その意味では、この時期にやっている企業はそこよりは人気のやや劣る企業達であることも事実だ。となれば、最終面接までいって受かる可能性は高い。


(だが彼女もそんなことは分かってる。それだけに、落ちたらショックは大きいだろうな)


 期待するべきではない。しかし、どうしても期待してしまう。時間をかけるほどに、労力をかけるほどに。その人間の性とも呼べる気持ちが、俺にはよくわかった。


「石田さん?」

「あ、ごめん。なんでもないよ」


 彼女が少し不思議そうに此方を見ている。俺は誤魔化すように笑いながら、空になりかけのコップを傾けた。


「あの、そういえば……」

「ん?何?」

「あ、いえ、何でもないです!」


 彼女はそう言って、再びオレンジジュースを口に運ぶ。彼女が何を聞こうとしているのか、俺にはなんとなく分かる気がした。


(だが、まだ話せないな)


 俺はわざと気付かないふりをして、ドリンクを汲みに席を立つ。彼女にはまだ何か言うことはない。話すのは片を付けてからだ。俺はそう考えながら、ドリンクバーでウーロン茶を注いでいく。


(だが、先延ばしにするつもりもない)


 田辺の言葉が思い出される。あれは許しでもあり、エールでもあった。どちらでもいい。『どうでもいい』のではなく、『どちらでも良い』。どっちを選ぶにせよ、あいつは納得してくれそうな気がしていた。となれば、後は自分が納得する方を選ぶべきだ。


(思えばつい最近までザ・他人って感じだったのにな。……不思議なもんだ)


 俺はコップを揺らさないように、ゆっくり席へと戻っていく。考えながら入れていたせいか、ついギリギリまで入れてしまった。答えはもう見つかっている。あとは決意と行動だけだ。


「石田さん、料理来ましたよ!」


 席に戻ると彼女が嬉しそうに言ってくる。別に学生であっても、大学生ともなればファミレスの料理なんぞ珍しくないだろうに。


 俺が席に着くのを待って、彼女は「いただきます」と食事に手を付け始める。随分と美味しそうに食べるものだ。俺も目の前に置かれたパスタに対して、つい期待値を上げてしまう。


(そういえばファミレスで食べるのなんて、学生以来かもな)


 社会人になると行く店も変わる。特にお酒が店選びの基準になるのだ。それにこんなにコンビニを使うようになるとも思わなかった。経済的でないとしても、忙しい社会人にとってはスーパーに行くのも一苦労の時がある。学生の頃には想像できなかったが。


「美味しい!」

「うん、確かに美味いな」

「石田さんのお陰です。ホントだったら私今頃、ご飯も喉通らなかったかもしれないですし……。あ、就活終わったら、私にご馳走させてください」

「え、いいよ別に。学生にご馳走になれないし」

「ダメですよ。……じゃあ、初任給でご馳走します」

「いや、だとしてもだね」

「でも、そうじゃないと私石田さんに助けてもらってばっかりですし!」


 彼女が申し訳なさそうに言う。


 何を馬鹿なことを。既に俺がした以上のことを、君は俺にしてくれたというのに。


 彼女はそんなこちらの気持ちも知らずに、申し訳なさそうにしている。そんな彼女の様子がどこかおかしく、俺はつい笑みをこぼしてしまう。


「?何か変ですか?」

「いや。別に。全然変じゃないよ」


 俺はそう言って続ける。


「じゃあ、初任給でご馳走してもらおうかな」

「はい」

「そのためにも早く内定取ってもらわないと」

「うっ」

「楽しみだなー。どこがいいかな」

「あの……、石田さん?」

「銀座に良いフレンチがあってね。そこにしようかな」

「石田さん……。初任給の平均ってご存じですよね?」


 俺はあたふたする彼女をからかいながら、パスタを口に運ぶ。美味い。ファミレスの料理も捨てたものではない。もっとも、『何を食べるか』と同じくらい『誰と食べたか』も大事なのだろうが。


(彼女様々だな。まったく)


 またしても彼女が背中を押してくれている気がする。


 俺は小さな決意を固めながら、彼女と食事を楽しんだ。







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