第16話 ダサい男に花束を
「課長、すごい剣幕だったね」
「ホントだよね。席離れてる私ですらびっくりしちゃったし」
昼休み、廊下を歩いていると女性職員の話し声が聞こえてくる。俺はつい足音を殺し、少しだけ速度を落としてしまう。
ゴシップに興味が出てしまうのは人間の性だ。それも自分に関係ありそうな話となれば、尚のこと。
「田辺さんもけっこう反抗するからね。課長もヒートアップしちゃうし」
女性職員が楽しげに話している。廊下で話しているのは、それが少し話しにくい内容だからであろう。秘密というよりは、当人に聞かれてまずい系のそれである。
それは8月も中盤に差しかかろうとしていた日のことだった。これまで何度かは起きていたことではあるが、ついに課長が田辺に対し最大級の雷を落としたのである。
(あいつのミスも大分同情の余地はあったが……、態度が悪かったな)
普段からの行いも積み重なってはいたのだろう。課長自身、感情型ではあるとはいえ、このご時世に頻繁に声を張り上げるほど愚かではない。管理職も厳しくなるコンプライアンスに怯え、振る舞いを正さなくてはならないのだ。
だからこそ、今回のことは相当にお冠であったことがうかがえていた。怒りは必ずしも一つの事件をきっかけに放出されるわけではない。今まで我慢していたことなどが最後の引き金をきっかけに一気に噴出することもある。
(今回の場合、噴出の原因はミスそのものではないからな)
その時の田辺は明らかに態度が悪かった。話を聞きつつも、所々で反論し、自分が悪くないと言おうとしていた。勿論100%アイツが悪いわけではないのだろう。だが、それであっても逆効果だった。
「でもやっぱり驚いたのは石田さんが……あっ」
丁度そのタイミングで、俺が彼女達の横を通りかかってしまう。
何という間の悪さ。少し前まではそんなことにはならなかっただろう。ある意味では下り坂を転がり落ちている今の俺らしいと言えば俺らしい。
(いや、”俺らしくない”事をしたからこうなっているのか)
俺は軽く会釈をして、そのまま通り過ぎる。普段自分の机で食事を取っているアイツも、今日は流石に気まずいらしい。だが、その気持ちは俺にもよく分かった。
(まあ、俺もあの人の結婚を知ってから、しばらく昼は外に出てたしな)
そろそろ昼休みが終わる。そろそろ戻ってくる頃かと思ったが、当てが外れただろうか。俺がそんなことを考えていると、田辺がエレベーターから出てくるところが見えた。
(やれやれ。こっちは丁度良いタイミングだ)
俺は彼を追いかけるように歩いて行く。昼休み終了の5分前、俺は席に着こうとするその生意気な後輩に声をかけた。
「いらっしゃいませ。お先、お飲み物を何にいたしましょうか?」
「とりあえず、生二つで」
俺はそう言ってドリンクを注文し、QRコードからメニュー表を開く。前回、大森さんと一度来ている店だ。注文方法も、美味しいメニューも抜かりはない。
ただ前回と異なるのは、俺の正面に座る相手が可愛らしい女性職員から、愛想の悪い後輩へと変わっていることだった。
「僕、生飲むなんて言ってないんですけど」
「ん?そうか?まあでも付き合いだから飲めよ」
俺はそんな風に言いながら、勝手に好きなメニューを注文していく。どうせ俺が払うんだ。文句を言われる筋合いはない。
昼休みが終わる直前、俺はこいつに今日の夜飲みに行こうと誘った。最初はきょとんとした顔をしていたが、断る理由を考えさせる前に強引に決めてしまった。来るときも若干ごねていたが、「嘘つけ。予定なんてないだろ」と言って無理矢理引っ張ってきた。
迷惑?しったことか。コイツも身勝手なんだ。それならば俺だって信じたようにやらせてもらう。
「お前、何頼む?」
「別に、何でも良いです」
「ふーん。了解」
俺はそのまま注文を確定させる。そしておしぼりの袋を開け、手を拭いた。田辺が話し始めたのは少しばかりの沈黙が続いてからであった。
「それで」
「ん?」
「今日は何で連れてきたんですか?」
田辺は此方に視線を合わせずに、質問を投げかけてくる。俺はそんな奴をしっかりと視界の中心に捕らえながら、答えていく。
「さあね」
「さあ?」
「知らんよ。そんなこと。なんとなく飲みたかったんだ。暇だろ?お前」
俺の回答に、少しばかり不満げな表情を見せる。別にコイツに合わせることはない。俺は無駄に自信に溢れていた。
「今日、そもそも何で……」
「はい。ビール二つお待たせしました」
また間が悪く、頼んだ生ビールが運ばれてくる。この場合間が悪いのはお店の人の方だろうか。まあ、いずれにせよどうでもいいことではあった。
「とりあえず乾杯するか。……乾杯!」
俺は半ば無理矢理田辺とジョッキを合わせる。俺はちびちびと口に運ぶ田辺を余所に、勢いよくビールを流し込んでいく。
「あー、美味い。やっぱり暑い日のビールは最高だな」
「…………」
田辺は何をいうでもなく、無愛想にジョッキを置く。心底迷惑そうに見せるその態度も、どこか甘えが見え隠れしている。「俺は別に声かけてもらうほど落ちぶれちゃいないし、気にもしていない」。そんな情けない男心が透けて見えていた。
もっとも、それは俺がかつて思っていた事でもあるのだが。
「別に助けたわけじゃねえよ」
「え?」
「今日のやつも、この前のやつも」
初めて田辺が顔を上げる。俺はそれを確認してから、話を続けた。
「お前を惨めに思うほど、俺は高い位置にいるわけじゃない」
「…………」
「それに同情でもない。そんな風に思ってやるほど、俺に余裕はない」
「………」
俺はジョッキを傾ける。今日は調子が良い。いつのまにかビールが無くなっていた。
「それじゃ、なんで今日間に入ってきたんですか?それも……課長に反論するような形で」
俺がスマホをいじって追加のオーダーをしていると、田辺が話し始めた。
田辺の言うとおり、今日の一件は少し状況が違っていた。いつもならなだめるところだったろうが、今日の俺は明らかに課長に対抗するような形で意見していたのだ。
その結果、課長はもっと怒ってしまったが、俺には正直どうでもよかった。
「君はこの程度のこともできないのか」。田辺に対してそう言ったとき、自然と身体が動いていた。後のことは、正直あんまり覚えていない。
俺は追加の注文を飛ばし、背もたれによりかかってから大きく息をはく。そしてゆっくりと田辺の質問に回答した。
「……ムカついたからさ」
「ムカついた?」
「そう。ムカついたから」
田辺は意味が分からなそうにしている。俺はそんな田辺の様子をボーッと眺めながら話を続けていく。
「課長もさ、別に適切な指示を出せているわけじゃ無い。下が勝手に配慮して動いてやってるだけだ」
「………」
「それなのにこちらが悪いかのような説教をしてくる。腹立つだろ?」
課長が怒りをぶつけたのに対し、こちらも真っ正面から怒りをぶつけた。よく考えればそれだけのことだった。社会人としてはあるまじき対応だったのは間違いない。だが、不思議と気分は良かった。
田辺は何も言わず黙って聞いている。
「係長だって同じだ。愛想良く振る舞ってるだけマシだが、マネジメントなんて何一つできない。お前が怒られてるときだって、怒られた後だって、特に対応なんてしない。課長の顔色だけうかがって、まるで何事も無かったかのように、ニコニコして場をおさめようとしてる」
俺は言葉を紡ぎながら、同時に自分の中から嫌な空気が抜けていくのが分かる。始めから分かっていたことだった。
「誰かに話したい」。でもそれをするだけの自分の中での整理ができていない、それだけのことだ。
(そして図らずも、彼女のお陰で自分の中で何かが固まったってとこか)
俺は少しだけ口角を緩めて、また話を続けていく。
「でもムカつくのはそれをそのままにしている周り全員だ。勿論、俺も含むな」
「周り?」
「そう。周りだ。社会人だからと、腫れ物には触れず、影で話のネタにする。勿論ヤバい奴から離れようとするのは処世術だが、それでも気分悪い部分があるのは事実だ」
「…………」
田辺は特に何か言うわけでもなく、ぼんやりと机の上に目を落としている。そして今度は丁度良いタイミングで、追加のビールと料理が運ばれてきた。
俺は割り箸を割り、頼んだたこわさを口に入れていく。大森さんと来たときは遠慮したが、やはり自分の好みで注文できる居酒屋は最高だ。
「あの」
しばらくして、田辺が何か言いかける。俺は特に何か言うわけでもなく、自分の好きなつまみを頬張り続けながら、田辺の方を見た。
「どうかしたか?」
田辺が何も言わないので、こちらから質問する。田辺はどこか躊躇いながら、意を決したように口を開いた。
「この前は……、すいませんでした」
「ん?いや、だからフォローは俺が勝手に」
「あ、いやそれじゃなくて」
田辺が言い淀む。そして少し俯き加減に続けた。
「大木さんのこと、です」
俺は思いがけない謝罪に咀嚼が止まる。しかしすぐにビールで流し込み、軽く笑った。
「何だ、そんなことか」
「すいません。勝手なこと言ってしまって」
「いや、いいんだ。……事実だからな」
俺の言葉に田辺は何も言わない。気を使っている……というよりは、言葉が見つからないというところだろうか。
彼にも多かれ少なかれ感じる部分があるのだろう。好きな人に振り向いてもらえなかったという点では、俺達は共通している。
(じゃあまず先輩として、こっちから自己開示しますか)
「俺、ずっとあの人のこと好きでさ……」
俺はそんなことを思いながら、自分の経験を話していく。そもそも田辺にも察せられる程度には好意があからさまだったんだ。既に張るべき虚勢も無い。驚くほど自分の心情を吐露できていた。
どうしようもなく好きだったこと。話すきっかけを作るために、お土産持って行ったりしたこと。帰る時間をなるべく合わせようとしていたこと。喋っていて顔をうずめたくなるような話も全部していた。
それは存外に気持ちよく、田辺もどこか楽しそうに、そして真剣に聞いていた。
「わかっただろ?俺はお前のこと言えた義理じゃない」
俺が一通り話した頃には、お互いかなりできあがっていた。何せ話す内容はいくらでもある。俺もヒートアップし、これでもかと自分の恥をさらしていた。
田辺はあまり酒に強くはないようで、既に顔が赤くなっている。
「だから大森さんに関しちゃこの辺でやめておけ。俺みたいに恥かくぞ」
「ははっ。流石に石田さんには負けますよ」
田辺は笑いながら言う。しかしその中に少しだけ、どこか寂しそうな気持ちを秘めてることも俺にはよく分かった。
「ちなみに石田さんは、その結婚指輪を見たとき、諦められたんですか?」
田辺が聞いてくる。俺はニヤリと笑って答える。
「いや、全然。今から告白すれば間に合うかなとか考えてた」
「それは流石に……ヤバいですね」
田辺が笑う。俺もつられて笑っていた。
「お、言ったな。田辺、もう一軒付き合えよ。先輩として教育してやる」
「石田さん、それパワハラですよ?通報されたいんですか?」
「ふ、甘いな。公務員の通報は穴二つだ。通報すれば、通報したやつも不穏分子だと見なされる。つまりは表にならない形で出世が遠ざかるんだ。知らなかったか?」
「嘘だ……ともいい切れないところが嫌なところですね」
「まあ組織の嫌なところだ。勿論良いところだってあるけどな」
小気味よい会話のラリーが続く。男なんてものは単純だ。酒と料理と、女の話題と、幾つかの失敗談があれば仲良くなれる。
「そういえば石田さん。それ以降大木さんと話したんですか?」
田辺が聞いてくる。
「いや、あれ以降彼女を前にするとなんかこう、心臓が痛くなるんでな。ロクに話もしてない。偶然会って挨拶ぐらいはしたが……。当然、結婚のお祝いも言えてない」
「石田さん、以外と繊細ですね。というか肝が小さい?」
「やめろ。それは普通に効く」
田辺は俺の言葉に楽しそうに笑っている。コイツがこんな風に笑っているのを見るのは初めてだ。きっと職場では見せたこともないだろう。
「まあいいんじゃないんですか。別に。どうせ部署も変わるし、ほっとけば話すこともなくなりますよ」
「まあ、そうっちゃそうだが」
「それにそんなにいいとは思えないですけどね。大木さん」
「そりゃ失礼だろ。あの人にも、俺に対しても。そんな性格だから、大森さんにだって振られるんだぞ」
「……別に振られてませんよ。それに、もういいんです。流石にそういう裏の立ち回りを聞かされれば、同じ気持ちではいられません。正直萎えました」
田辺はそう言って笑っている。下手な強がりだ。俺には痛いほど分かる。きっと心は、諦めきれない自分と、くじけそうな自分と、なんとか奮い立たせようとする自分でぐちゃぐちゃだろう。
「なんすか。石田さん、ニヤニヤして」
「ん?まあ、気にするなって」
「とにかく一旦店を変えよう。……すいません。お会計お願いします」
俺は適当に誤魔化しながら、田辺を連れ出していく。外は暑く、夜になっても蒸し暑さは消えなかった。
その後は二人とも十分に酔っていたこともあり、キャッチに捕まってよく分からない店に入り、よく分からない酒を飲んだ。新宿ではありがちな馬鹿げた行動。普段ならしないことも、今日に限っては楽しかった。
「振られた後輩に」
「ダサい先輩に」
「「乾杯」」
その日の夜。男二人。互いにダサい姿をさらしながら飲む安酒は、どんな酒よりも美味かった。
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