第15話 ダサい変化に花束を


 足取りが軽かった。俺はいつもの電車にいつも通りの時間に乗る。


 いつものワイシャツに、いつもの鞄。髪型も持ち物も何一つ変わらない。


 だが、その日は明らかに何かが違っていた。


 身体は軽く、どこまでも行ける気がしていた。







(さて、どうするかな)


 俺はデスクについて一通りメールチェックを終える。周りの職員は今日もせわしなく業務に勤しんでいる。普段は周りなど気にもかけなかったが、今日は周囲の景色がよく見えた。


 俺は椅子に深く腰をかけて息をはく。


 どうするかというのは、仕事の件ではない。彼の件だ。


「田辺君さあ、ちょっといい?」

「……はい」


 あきらかに不機嫌そうな課長が、件の後輩を呼ぶ。


「課長また雷落としてるよ」

「最近新規事業で忙しいから荒れてるんだよねえ」


 近くの職員達の噂話が聞こえる。


 席に座ったまま呼びつけるその姿からは、人間としての底が見えるようにも感じた。しかしそれでも田辺の肩を持つ人間が少ないのもまた事実であった。


 今ここにいる一人を除いて。


「だからさあ、いつまでも同じミスを続けてたらさ……」

「課長、すいません」

「ん?石田、どうした?」


 俺は割って入るように声をかける。課長も田辺も、思いがけない俺の登場にきょとんとした顔をしていた。


「これ、誤って僕が指示出してしまったんです。すいません、これが修正した資料です」

「石田が?」

「はい。直接は関係ないんですけど、質問されたときにちょっと手を加えちゃって」


 俺は謝りながら差し替えの書類を渡す。元々は別に大した修正じゃない。田辺を攻撃する口実が欲しいだけなのだ。課長はさっと確認すると「まあ、これでいいか」。とだけ言った。


「いずれにせよ、気をつけてね」


 課長は特に自分の非を認めることはなく、話を終える。席へ戻る途中、田辺は何か言いたそうであったが、俺は無視して足早に席に戻った。


 別に何かがしたいわけでもない。彼への同情があるわけでもない。


 ただ、なんとなく、このまま進めるのはすっきりしない。ただそれだけのことだった。


 その日は特に彼から何か言われるわけでもなく、何事もなかったかのように過ぎ去っていった。








「その案件なら前に似たようなのやったことがある。資料貸すよ」


「特に当てがないんだったら、業者の名刺幾つかもってるからそこに聞いてみな」


「ここのフォルダにマニュアル入ってるから、それ使えるぞ」


 来る日も来る日も、俺は特にいわれなくても田辺に手を貸していた。奴は「はあ、ありがとうございます」と気の抜けた礼をたまに返すぐらいだが、それでも俺には十分だった。


 周りからは妙な目で見られる所はあるかもしれないが、俺にとっては関係ない。


「あ、石田さん。お疲れ様です」


 廊下ですれ違ったとき、大森さんが俺に話しかけてくる。


「おお。お疲れ」


 俺がそう言って一瞬立ち止まる。そして再び動き出そうとすると、彼女が話を続けてくる。


「石田さん、最近田辺さんと仲いいんですね」

「そうか?全然相手にされてないぞ?」

「でも結構石田さん、構ってるじゃないですか」

「どうかな。そんなことないと思うけど」


 俺は適当に返しながら、彼女を観察する。彼女としては俺に依頼をした手前、その張本人と仲良くしているのは気になるのだろう。


 別に何をするわけではない。何ができるわけではない。彼女は俺に相談したことがバレるのではないかと危惧しているのかもしれない。そこまでではないにせよ、だがそんなものはとっくに話してしまっている。


 普通に考えればそれはどう考えてもマズイことだが、もうどうでもいい気がしていた。


 彼女の側に立とうなんて思わないし、それで彼女が少しでも不安に駆られるなら、それは面白い気がする。俺はもうその程度に考えていた。


「じゃあ、また」


 俺はそう言って少し強引に場所を離れていく。話すことなんて無い。俺の足取りは軽く、廊下をすいすいと進んでいった。











「今日も長かったな……」


 俺は大きく伸びをしながら少し離れた場所にかけてある時計を見る。時刻は20時を回っている。最近は就活も大詰めらしく、彼女から俺の方に練習の連絡は少なくなっている。


 教えられることは教えたし、後は彼女が頑張る時間だ。何でもかんでも教えられるほど自信も無かったし、傲慢でもない。結局のところ責任は本人がとるのだから。


(とはいえ、それに合わせるように仕事の方が忙しくなるとはね。タイミングが良いんだが悪いんだか)


 俺はそう思い、空いたペットボトルを持ち、席を立つ。今し方、彼が立ち上がるのが見えたからだ。普段使っているタンブラーを袖机の引き出しにしまっているのも、このためである。


「お疲れ」

「……お疲れ様です」


 俺は別ルートから一足先に自販機にたどり着き、やってくる田辺を待ち構える。相手が先に来ていればさっさと買って場を離れられるが、俺が先ではそうはいかない。


「何にしようかな」

「…………」


 俺は迷った振りをして、少しだけ間をあける。そして適当に選んだお茶を取り出し、田辺に質問した。


「どうよ。業務の方は?」


 田辺は軽く「そうですね」と言いながら自販機のボタンを押す。こう聞かれては簡単に離れることもできまい。田辺は上手くやれているやつではないが、あからさまな変人でもない。少なくとも、先輩を無視するほどには。


「なんとかやれてますよ」

「そうか。そりゃいいや」


 俺がそう言い終わると同時くらいに、田辺は「じゃあ」と言って歩き出す。


 別に何かが大きく変わるわけでもない。自分にとっての劇的な変化も、衝撃的な事件でさえも、他人から見れば大したことはない。田辺からしても、「なんかこいつ優しくなって気持ち悪いな」ぐらいにしか思ってないかもしれない。


 だが、そんなことはどうでもいいのだ。俺の心がそうするべきだと判断した。その判断に変わりはないのだから。


 しかし心が変わり、行動が変われば、結果も変わる。日常の出来事さえも、あっさりとその方向性が変わっていく。


 それは翌週のことだった。俺と田辺の関係は、いとも簡単に変化した。






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