第11話 鏡の自分に花束を





「石田さんって、大森さんと付き合っているんですか?」


 田辺の言葉を俺はもう一度咀嚼する。俺は間を開けるため、ジュースの入った缶を今一度あおった。


(まずいな)


 身体がストレスに反応して、今一度集中力を高めていく。わずかな時間の間で、俺は状況を整理していく。


 彼が何を知っているのかはわからない。何故そんなことを聞くのかも。だが、心当たりはすぐにみつかった。おそらくは、この前飲みに行ったときだ。


(くそっ。何で小さい方の缶を買っちまったんだ……)


 俺は空になった缶に少しだけ力をいれて握り、再度田辺の方を向いた。


「いや、付き合ってないけど、急にどうしたんだ?」


 俺は一旦事実を述べる。下手な嘘はつじつまが合わなくなる。だが、本当のことを何から何まで話す必要も無い。話せば嫌が応にも、面倒事に巻き込まれる。


 俺は一部伏せながら、事実だけ伝えることにした。


「いえ、この間二人が一緒にいるところを見ましたので」

「いつだ、それ?少なくとも、彼女とそんな間柄じゃないが」


 俺は今一度しらを切ってみる。正直に答える必要は無い。認めさえしなければ、こいつは何を知るわけでもない。俺はそう考えていた。


 あまり深く聞きすぎては流石に体面上よろしくない。それぐらいの分別はつくはずだ。というかそもそも、俺にこんなことを聞いてくる時点である程度たがは外れてしまっているが。


 田辺はまっすぐ此方を見ている。普段挨拶するときはロクに人を見れないくせに、どうしてこんな時だけ。俺は心の中で舌打ちをした。


(面倒くさいな。こいつ)


 俺はどうしたものかと思考を巡らせる。しかし思考がまとまることは一向にない。ただ言い表しがたい怒りだけが、俺の頭を支配していた。


 何で俺がこんなことに頭を割かなくちゃならないのか。彼女がさっさとこいつを振ってしまえばいいのに。


 何でこんな面倒くさいことになっているのか。この男がもっと玉砕覚悟でアタックしていればよかったのに。


 何でこんなに苛立つのか。面倒くさいことに巻き込まれ、あまつさえ俺が回答に困っている。だいたいそれを答えてくれると思っているのか。この男は何も考えていない。感情に支配されている。


(もういっそぶちまけてやるか。ここで)


 俺は半ば思考を放棄し始めていた。


「別に秘密にしているなら言いふらしたりしませんよ。先週の水曜日の夜、二人で歩いているところを見たので聞いてみただけです」


 田辺は少しだけ笑うと自販機を操作する。「ピピッ」という電子音と共に、缶ジュースが落ちてきた。


 努めて自然に見せているが、それが見かけだけであることは十分に分かった。大森さんの話もそうだが、何より、俺自身がよく分かっている。


(好きな相手に男がいるのかどうかで一喜一憂する、か)


 俺は自分の中で形容のしがたい何かが湧いているのがわかった。怒りという形容は正確じゃない。どちらかといえば憤り、ぶつけられないフラストレーションのようなものである。


(これ以上しらを切るのは難しいか。かといって相談に乗っていたってのも変に勘ぐられる可能性はある)


 田辺は缶を開けながら、俺の回答を待っている。変に待たせるのも不自然すぎる。しかし、どうも言葉が出てこなかった。


「どうしたんですか?石田さん。めずらしく言葉に詰まりますね」

「いや、別にそういうつもりじゃなんだが」


 煩わしい。コイツのことを考えて言葉を選ぼうとしているのに。


 その時だった。




「別に、どうこう言うつもりはないですよ。ただ、少し意外でした。大木さんが結婚しちゃって、それで相手を変えたんですか?」




 それは、間違いなく越えてはいけない一線だった。


 他のことなら、こんなことにはならなかっただろう。冷静に考えれば、俺がやろうとしていることは間違っている。


 だが奴は触れた。逆鱗なんかよりももっと質の悪い、男にとって一番触れられてはいけない生傷に。


「お前が聞いたんだからな」

「え?」


 俺は軽く舌打ちをして、田辺の方を向く。急に変わった俺の態度に田辺は少しだけ気後れしている。


(この程度でオタオタするようじゃな)


 俺はもう止まれなかった。


「お前のことで相談を受けたんだよ」

「え?それって」


 自分の話が出て、少しだけ声のトーンが変わる。ポジティブな意味にでも捕らえたんだろうか。本当にこいつは救えない。


「勘違いするな。良い意味じゃない。むしろ、その逆だ」

「え、どういう」

「迷惑しているから、うまく対処できないかって相談だ」

「っ!?」

「彼女は迷惑している。黙って手を引け」


 田辺の目が一瞬開かれた気がした。奴の気持ちは手に取るように分かる。丁度おれが、触れられたくない傷を触られた。それと同じだ。


 自分がもっともダサいとするその姿を、人にまざまざと観察された、男として一番屈辱的な瞬間だ。


 男はプライドで生きている。だからダサい瞬間は、人生で最大の汚点となる。そしてその汚点を作るのが怖いから、男は挑戦を諦めるのだ。


(俺がやっているのは、ただの逆ギレ。八つ当たりだ)


 俺は缶を握りつぶす。そしてゴミ箱に入れて、視線だけ田辺に向けた。明らかに動揺している様子だった。


「まあ、別に俺は彼女に興味があるわけでも付き合っているわけでもない。ただ、たまたまお前と同じ担当だったから相談されただけだ」


 俺は続ける。


「信じる信じないは自由だ。だが、少なくとも気がある相手に対して、女は誘いを無下にはしない。……そういうことだ」


 この言葉は効く。確実にやつの心を抉っただろう。俺はそれをよく理解していた。


 自分の中で渦巻く疑念。必死で直視しないようにしていた現実。それを叩きつけられれば、まともに考えることなどできはしない。


 だがこの言葉は一体、誰に向けて発しているのだろうか。それはきっと、今呆然と立ち尽くす後輩に対してではない。


 それはかつての自分。甘い将来に期待し、いつまでも時間を浪費し続けたダサい自分に対してだ。


(情けない奴だ)


 俺は田辺をその場に残し、足早に自分のデスクへと戻っていく。


 彼はしばらく戻ってこないだろう。きっと、トイレの個室かにこもって、頭を抱えていたりするはずだ。


 俺にはその気持ちが良く分かった。いや、知っているのだ。かつての自分がそうだったのだから。


(……帰ろう)


 俺はデスク周りを片付け、PCの電源を落とす。


 頭を冷やすべきだ。俺は結局、誰のことも考えちゃいない。大森さんのことも、田辺のことも。俺が考えているのは自分自身のことだけだ。


 ダサい自分を思い起こすから。情けない過去を振り返らせるから。俺はこんなにも田辺の姿に憤りを覚えていたんだ。


 こんな回りくどいことせずに、さっさと告白すべきなのだ。そっちのほうが結果としては傷が浅くなる。


 恋愛に時間をかけることは、決して美談なんかではないのだから。


 俺はエレベーターのボタンを押す。もう既に陽は完全に落ちていた。


(何をやってるんだかな)


 中々来ないエレベーターを待ちながら、俺はぼんやりと新宿の夜景を眺めていた。




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