第10話 止まれない男に花束を
あれから幾日が過ぎた。久しぶりに彼女、野村遙香から連絡があり、PCに向かう。普段はほこりをかぶっていることが多いこのPCも、使う機会が増えたおかげで大分きれいになっている。
「でも自己分析って何のためにやるんですかね?」
彼女が言う。それは先にもらっていたエントリーシートの添削内容を説明し終え、すこし場が和んだ時だった。
画面の向こうで彼女がそんなことを口にしながら、俺がコメントを入れたエントリーシートとにらめっこをしている。
あれ以降彼女はだいぶ持ち直しているようだった。新しく応募もし、何個も選考を受け、幾つかは落とされながらも、それでも食らいついて就活をしている。
あの泣きじゃくっていた様子からは想像もつかない復活ぶりである。
「自分が本当に行きたい企業、向いている企業を知るためじゃないか?それに自分の強みを知っておかないと相手にもアピールできないし」
「そうなんですけど、やっぱ難しいなって思って。自分と向き合うとどうしてもダメな部分ばかり見えちゃうっていうか、目をそらしたくなるって言うか……」
彼女は「あはは」と軽く笑いながらカタカタとタイピングをしている。俺はのんびりその様子を見ながら、椅子に深く腰掛けた。
大森さんと飲み以降、俺は特に何もしていない。何もする気が無いというよりかは、そういったタイミングが存在しなかった。
いや、そもそもそんなタイミングが存在するのかは分からない。「あいつは気が無いからやめとけ」なんて、いくら何でも無神経すぎる。それを上手く伝えられることなんて、あり得るはずがないのだ。
(ここは大森さんには悪いが、静観するか)
俺は自分にそう言い聞かせる。これは彼女の問題だ。俺がどうこうすることじゃない。俺はここ数日間、思いがよぎる度にそう言い聞かせている。
しかしどうしても頭の片隅に、なにかもやっとしてものが残る気がしていた。
(あの人も……そんな相談をしていたのだろうか)
「できました!」
彼女の声で、俺は現実に呼び戻される。
彼女はうれしそうに俺にエントリーシートのデータを送っていた。俺は受信したファイルを開き、ざっとその中身に目を通す。
「うん。いいんじゃないか。良い部分がよく表現できている」
「ありがとうございます。石田さんに教えてもらわなかったら、こんなにちゃんと書けなかったです」
彼女は屈託のない笑顔でそう言ってくる。
「まあ、せっかくの機会だ。辛いかもだけど、自分に向き合うチャンスだから、大事にしよう」
「はい!」
彼女が元気よく答える。
その日はそれでお開きとなり、おれはPCの電源を落とした。
(今日はやけに暑いな)
俺はうちわを扇ぎながら、どうも納得がいかない説明資料を確認する。
その日は特に暑かった。とっくに定時は過ぎており、久々に長い残業が見込まれていた。部内も全体的に慌ただしく、もうすぐ八時を回ろうとしていたが、ほとんどの人が残っている。
資料なんてものは粗を探し出したらきりがない。それに上司の好み次第でいくらでも修正が入る。それは重々承知だった。
(分かってはいるが……)
そうは言っても、自分自身で納得できる最低限のラインぐらいには完成度を上げておきたい。俺は今一度文言を確認する。
細部にこだわりすぎても良くないが、妥協し始めると今度は楽をするようにもなる。投げやりにもならず、こだわりすぎず。そのバランスが難しかった。
「石田さん、すいません」
「ん?」
俺は顔を上げる。するとそこには件の田辺が立っていた。
同じ担当だから話すこと自体は珍しくない。しかし彼から声をかけてくるのは多くはなかった。
「この資料のここの部分って、どこからもってきたのかわかります?」
「ああ。それね。共有フォルダのリンク送るわ」
俺がそう言うと、田辺は自分の席へと戻っていく。礼ぐらい言っても良い気がするが、俺はそこまで気にはしなかった。
(メールを送って、と)
俺は田辺にメールを打つと、再び自分の資料に目を通す。しかし少しして、田辺が先程もっていた資料を思いだした。
(悪くはない。悪くはないんだが)
俺はおもむろに、昔研修で受けていたときにもらった資料を引き出しの中から取りだしていく。『上手な資料の作り方』、ひねりのない研修名だが、それでもそこそこ役に立っている。
(資料の目的、相手を明確にする。文字数を多くしすぎない。きれいな資料としての参考例……か)
上司に勧められ、とりあえず受けてはみた研修で、当初はそんなに乗り気ではなかった。しかし受けてみたことで、今までぼんやりしていたやり方が、言語化されることで整理された気もしていた。
案外無駄に思えるようなことも、面倒でつい避けがちだったことも、自分の身になっていることは多い。あれ以来、一件初歩的に見える研修もある程度受けるようにしていた。
(だとすれば……)
彼女を想っていた経験も。俺はそこまで考えたところで、目頭を押さえる。考えていたことをなんとかして意識の外に出そうと力を加えた。
自分の経験に何かの意味を見出そうとするのは、悪い癖だ。それは後付けの合理化でしかない。本来であればもっとはやくに気持ちを伝え、さっさと次に移るべきだった。
二年かけようが一週間で終わろうが、失敗の経験としては同じ一件でしかない。無駄ではないにせよ、時間をかけすぎていた。それが事実だ。
(くそっ。嫌なことばかり頭によぎる)
俺は雑念を消すためにも、今一度ギアを切り替え、仕事にとりかかった。
「お先に失礼します」
しばらくして、他の職員が帰りだし、気付けば職場にはほとんど人がいなくなっていた。
とはいえ時間は既に9時半を過ぎている。それなりに人がいないのも納得ではあった。
(珍しく残っちまったな)
俺は気分転換に自動販売機の元に向かう。この時間になると、給茶機の稼働が停止してしまう。なんでそんな仕様なのかはわからないが、よくわからない不便さはどこにでもあるのだ。それに、俺も糖分を欲していた。
(さて何にするかな)
俺は最高に甘い炭酸飲料を小さめの缶で購入する。そして一気に飲み干して自販機横で開けてぐいっと傾けた。
(残業中に飲む炭酸は脳に染みるな)
俺がそんな風に満足げにしていると、近づいてくる足音が聞こえた。俺は自販機を使うだろうとすこし避けると、そこに田辺がやってきた。
「ん。お疲れ」
「……お疲れ様です」
俺の挨拶に、やや義務的な挨拶が返ってくる。まあ、この男に愛想を期待してはいないし、挨拶が返ってきただけ良しとした。
(チャンスか?いや……)
俺は一瞬あの話をしようかと思ったが、やめることにする。話しても何の得もない。ただ面倒くさくなって、俺が損をする。そんな未来が想像できた。
(だが……)
こいつは、このまま想い続けるのだろうか。大森さんがどう対応するのかはわからない。ただ、はっきりと断っていないことだけは確かだ。
いや、彼女なりにははっきりしているのかもしれない。だが、だとしても、彼にはそれが理解できないのだ。
もっと言うなら、理解を拒んでしまう。理屈よりも先に感情が動いてしまうのだ。
俺のように。
(惨めだな。こいつも……)
俺も。そう続きそうになったとき、思いがけない言葉が田辺から発せられた。
「石田さんって」
「ん?」
不意な言葉に、俺が聞き返す。田辺は此方を見ることなく、話を続けた。
「石田さんって、大森さんと付き合ってるんですか?」
「え?」
俺は田辺の顔を見る。今度ははっきりと此方を向いていた。何か確信めいた眼差しで、視線が俺を貫いている。
状況は一変した。
(最悪だ)
俺はこの面倒な状況をどうにか切り抜けるための方便を、仕事で疲れ切った頭の中で、必死に考えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます