第7話 ダサい心に花束を
(はあ。まあこんなものかな)
今日も今日とて仕事に邁進する。半ば定例化している課長の急な頼み事も、ほとんど終わりかけていた。
(今すぐに出してもいいが…。いや、もう少し置いておこう)
早く終わったからといって別に評価が上がるわけでもない。ましてや、給料が上がるわけでも。そもそもそんなに必要な資料でもないのだ。もう少し置いてから出しても、問題はない。
今朝も今朝とて、揉めていた。
揉めていたのはいつも通り、上司と俺の後輩だ。どっちもどっちで、どっちも悪い。そしてその尻拭いはいつも善良な他者に回ってくる。今日は俺だった。
しかしそれでもそんなに気分が悪くはないのには理由がある。まず一個目は少しばかり時間が経ったことだ。恥ずかしくも情けない、あの失恋と呼んで良いのかさえわからない出来事から、かれこれ二週間経つ。やはり時間というものが一番の特効薬であるらしい。
そしてもう一つ、それは気を紛らわせてくれる別のこと。
(ん?)
スマホのバイブに気付き、ポケットから取り出す。メールが一通だけ入っていた。
『お疲れ様です。野村遙香です。石田さんのお陰で、エントリーシート通りました……』
ポップアップで概略だけ見て、俺は再びスマホをしまう。
たいしたことはしていない。むしろ気を紛らわせてもらっている分、トントンだ。俺はそんな風に考えながら、再びモニターに向かった。
「課長。頼まれていた資料送りましたので、お時間あるときにご確認ください」
「おお。ありがとう」
俺は課長がそれなりに忙しく、なおかつ苛立っていないタイミングを狙って、声を掛ける。
多分フィードバックは明日以降だ。場合によっては、そのまま終わりかもしれない。俺は今日の仕事を終えた達成感から、椅子に深く腰掛けた。
俺はスマホを取り出し、メールを開く。もう、夕方だ。他の職員もどこか弛緩し始めている。スマホをいじっていることをとやかく言うこともないだろう。
俺はいくらかのスパムメールをブロックしながら、彼女のメールにまでたどり着く。エントリーシートの他にいくらか書いてあるようだった。
(エントリーシートを突破して、来週面接がある……なるほど。不安だからってことか)
俺は報告の裏にある彼女の不安を察し、助け船を出す。『面接の練習が必要なら随時連絡してくれ』その旨を伝えるメールを送る。そして俺は左手にしている腕時計を見た。
時刻は18時30分。いつもより時間は早いが、上がっても問題ないだろう。
「すいません。お先、失礼します」
俺は手早く荷物を片付け、席を立つ。周りの職員に挨拶しながら、手早く執務室を脱出した。
丁度その時だった。
「おっと、すいません」
「いえいえ。こっちこそ……って石田さん?」
会いたくない人に会った。
俺の身体の中をきゅっとしまるような感覚が走る。嫌が応にも目にいれてしまう指輪。恋い焦がれ、そして手から離れていった女性がそこにいた。
大木彩花。彼女と話すのはいつ振りだろうか。いや、そんなことはどうでもよかった。
「石田さんも帰り?」
「ええ。今日は早く終わったもので」
並んで歩きながら、エレベーターのボタンを押す。おんぼろエレベーターに憤ったことは数あれど、願ったことはなかった。
早く来てくれ。俺はそう念じ続けた。
「最近、どう。仕事は?」
「まあまあですね。相変わらす課長が……」
かつてはこういった時間が本当に楽しかった。いつまでも続けば良いと思った。本当に愚かだった。
「それでね、この前こんなことが……」
「それは大変だ。でも大木さん暇だから丁度良かったんじゃないですか」
「うわ。石田さん、ひどい!」
「冗談ですよ。冗談」
俺は上手く笑えているだろうか。つい二週間前までは本当に心の底から笑えていたというのに。今となっては、どういう風に表情を作ればいいのかすら分からなかった。
エレベーターがやってくる。何人か人が乗っていて助かった。必然的に会話は終わり、そのまま一階へと着いた。
「じゃあ、失礼します」
俺はエレベーターを降りたところでそう告げると、そそくさと歩いて行く。以前はここから一緒に駅まで歩いて行っていただろう。だが今は違う。
そうすべきでないし、そうしたくもない。心臓が締め付けられるような感触をそのままに、必死に足を動かした。
(……情けない)
俺は足早に駅へと歩みを進めていった。
「すいません。石田さん、連絡したその日に手伝ってもらっちゃって」
彼女、野村遙香は明るい声でそう話す。画面越しでも伝わる程度に、彼女は上機嫌だ。少なくとも信用してもらえていることには、多少なりともありがたかった。
(正直、気を紛らわしてくれるのは助かる。……あの程度のことで女々しい限りだ。まったく)
俺は自嘲気味にそう考える。すると考え込んでいたのを見て、不思議そうに彼女が話しかけてくる。
「?石田さん、どうかしましたか?」
「あ、いや。なんでもない。それより、面接も大分良くなったね」
「ありがとうございます。一人で沢山練習した甲斐がありました!」
彼女が嬉しそうに答える。実際彼女の受け答えは非常によくなっていた。正直な所、本番で練習通りできれば、少なくとも面接は問題無さそうに見える。
「でも、あんまりこういうのもなんだけど、結局は需要と供給だからね」
「需要と供給?」
「相性って言った方がわかりやすいかな?優秀な人材だからといって、必ずしも雇われるとは限らない。性別比とか、年齢層とか、あと会社の業績とか。だから準備は万全にしつつ、期待しすぎないのが大事」
「まあ、そうですよね。なんか寂しいですけど」
「逆も然りで、人が足りないところは、本当にマッチしてるかわからないけど、『とりあえず雇うか』みたいになっている場合もある。そういう企業はだいたい辞める人が多いところだけどね」
「……ある意味では必要とされていないって事ですね」
彼女は頷きながら考えている。期待すれば碌な事はない。今俺は身をもって知っている。
それは恋愛において同じ事が言える。俺は彼女から必要とされなかった人間だ。
(……だが、彼女はそうじゃない)
俺は話を続ける。
「だからね、これまでも、これからも、仮に選考で落ちたとしても、それはほとんどの場合君が悪いんじゃない。マッチングの問題だ。それに今は転職も珍しくない時代だ。だから就活はほどほどに頑張るくらいで丁度良い」
「はい……。そうですね!」
彼女は少しだけ上向きなトーンで、そう答える。
人生は長い。彼女はこれからもずっと沢山のチャンスがあるんだ。俺はそう思いながら、自分のことへと思考をシフトさせた。「それに比べて」。そう言った枕詞から、自分自身で自らへと矛先を向けていく。
(まったく、最悪な気分だ)
今日の帰りのことを思い出し、少しずつ感情が黒く澱んでいく。考えないようにしていても、彼女の顔が頭をよぎる。
今自分は『相性』と説明した。需要と供給ともいった。マッチングだと励ました。だがそれが答えではないことも知っている。
そんな理屈じゃ、自分を納得させる理由にはならない。そんなもので納得できるなら、そもそも志望なんかしないし、好きになっていないのだ。
気分が悪い。頭に
(適当に理由をつけて切り上げよう)
俺がそう思った時、不意に彼女が話し始めた。
「でも、石田さんは必要とされてそうですから、羨ましいです」
「へ?」
思いがけない言葉に、変な声が出る。彼女には聞こえていなかったのか、そのまま話し続けていく。
「だってそうじゃないですか。見るからに仕事できるし、話だってうまいし」
「いや、そんなことないよ」
「そうですか?でも少なくとも私は石田さんに会わなかったら、もう就活すら続けられなかったかもしれないです。本当に恩人です!」
彼女は少しだけ照れくさそうに、そしてうれしそうにそう話す。
俺は軽く笑って、「それなら早いとこ就活終わらせなきゃな」とだけ返す。彼女は「分かってますよ」と笑い、俺が今日話したことをメモにとって確認していた。
以前の絶望した様子とは大違いだ。少し就活が好転し始めたからだろうか。だとしても随分と単純である。
(やれやれ)
俺は背もたれに体重をあずけ、特に何を言うわけでもなく、画面越しに彼女を見る。俺は息をゆっくりと吸い、そして、大きくはく。そして軽く伸びをすると、少しだけ自分の身体が軽い気がした。
(まったく、俺も大概だな)
俺は自嘲気味に笑う。
何のことのない会話。何一つ解決はしていない。
だがしかし、今確かに、頭の靄は晴れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます