第2話 ダサい彼女に花束を
「ちょっと、君大丈夫?」
顔面をぐしゃぐしゃにして泣いているその子に、中年の男性が声を掛ける。年齢は40は過ぎているだろう。スーツや時計の感じから、そんなに悪いところに勤めているわけでもないだろう。
「ごめ……さい。大丈……です」
「どうしたの?ちょっと話をきかせてごらん」
電車が来る。もう19時を回る新宿駅のホームは溢れんばかりの人で混沌としていた。
その雑踏の中では何を話しているのかは聞こえない。それに俺は、気にするまでもないと思っていた。
今の俺には、他人に声をかける気力すら残っていない。
俺はその善良な男性に敬意を払いつつ、電車に乗り込もうとする。ぼんやりと二人を眺め続けていたのは、本当に気まぐれだった。特に何かするわけではないが、その行く末は気になっていた。
だがその時、見てしまった。その醜悪な中年男性、その顔を。彼はそんな顔を見せながら言った。
「相談に乗ってあげるから、ちょっと静かに話せる場所に行かない?」
俺は気がついたら足を動かしていた。既に乗りかけた電車を降りる。そしてその男のもとに近づいた。
正義感?そんなものではないだろう。とにかくムシャクシャしていた。ただそれだけだ。
彼女が少しだけこわばった表情をしている。もう止める理由はなかった。
「すいません」
俺は男の肩を掴み、振り向かせる。言葉は柔らかくだが、その腕には少しだけ力を込めた。そしてもう一度「何されているんですか?」とだけ聞いた。
彼が本当に善意で声をかけている可能性もある。だが、そうじゃない場合のリスクが大きすぎた。
「あ、いや。私は、彼女の相談に……」
「そうですか!それはありがとうございます!後は大丈夫ですので!ご迷惑おかけしました!」
俺は「さっ、行こう」と彼女を連れて、その場を離れていく。その中年男性は何がなんだかといった感じだが、面子は潰されていないので特に何か言ってくることもなかった。
それにこちらから場を離れたのも正解だった。人は、心理的に何か新しいアクションを起こすことを避ける傾向にある。
あのままあの場所にとどまっていれば、俺との関係を疑われていたかもしれない。だが歩き出してしまえば、わざわざ追ってくるのは心理的ハードルがあった。
俺は彼女を連れてぐいぐいと人混みをかきわける。
電車が走り出すのを横目に、そのホームを後にした。
「ごめんね。急に。なんか心配だったんで。……とりあえず、一旦は安心して」
駅近の喫茶店で席に着く。俺はとりあえず自分の名刺を差し出した。
公務員はこういう時に便利だ。それだけである程度信用してもらえる。別に何の安心材料になるわけではないのだが、人は常に印象でいきているのだ。公務員というだけで、なんとなく真面目そうって思いこむ。公務員の犯罪だって往々にしてあることだというのに。
「君、名前は?」
俺はその子に声をかける。【子】と言っているのは、彼女が若く、それに幼く見えたからだ。
年はいくつぐらいだろうか。女性がスーツを着るタイミングはそう多くはない。黒髪を結わえたその様子は、独特の雰囲気を醸しだす。
成る程。そうなると、泣いていたことも想像がついた。
「私、野村遙香っていいます。○○大学の四年生で、今、就活してます」
○○大学、悪くはない大学だ。俺の職場でも、部署は違うが、何人か知り合いがいる。まあ、でも、決してマジョリティではないが。
「どうして泣いてたの?」
俺は聞いてみる。少し間が空いて、彼女が口を開いた。
「…さっき、メールが来て、最後の一社にお祈りされちゃって。気がついたら涙がとまらなくて」
(だろうな)
俺はそう思った。想像通りで何の驚きもなかった。
俺は公務員だが、就活もしていた。あの時期ほど、自尊心を削られた時期はないだろう。それでも試験で点数が良ければ受かるだけ、公務員はマシであったとも言える。
「そんなに気にすることじゃない。仕事だって結局は、人間関係で幸福度が決まる」
俺は当たり障りのないことを言う。心理的にはこれは事実だ。結局人間は希望の仕事を嫌な連中とするより、好きじゃない仕事を好きな仲間とする方が幸せなのだ。これは研究としてはっきりと出ている。……らしい。
「でも、私行きたいと思ったとこ全部落ちちゃって、このままどこも取ってくれないんじゃないかって」
また少し、涙が瞳にたまり出す。厄介な子を連れてしまったもんだ。もう少し余裕があれば、彼女の望む答えも出せているだろう。女性の相談には、共感が大事であり解決策は要らない。そんな鉄則を、俺は守るだけの気力が無かった。
「もう夏休みなのに、それなのに私だけ就活してて、何十社も受けたのに……。もう、何も考えられなくて」
そりゃ惨めだろう。俺はそう思った。
きっと今頃仲の良い子達はご飯とか行き始めているだろう。6月に内定が出た子達は、きっと夏を楽しんでいる。そんな状況をSNSに見せられてみろ。そりゃもう死にたくなるはずだ。
ポタ……ポタ……。
彼女の涙がカフェのテーブルに落ち始める。声を押し殺しながらも、泣くことが抑えられない様子だった。
(はてさて。どうしたもんだろうかね)
俺はどこか他人事のように彼女を見ていた。いや、実際に他人事なのだが、同情すらも刺してできていないほど、俺は感情移入ができていなかった。
「君、家は遠いの?最寄りは?」
「……巣鴨です」
「実家?」
俺はここまで聞いて、少しキモいなとも思った。だがまあ、別に彼女にどう思われてもいい。それに彼女は、さほど性的に魅力があるわけでもない。
「一人暮らし……です」
しかし彼女はあっさり答えてくれる。
警戒心がたりない。いや、考える力がもう残っていないのかもしれない。だがまあ、タクシー代くらいはだしてやろう。あのまま混沌とした新宿の電車に、乗せるのは忍びない。
「そっか。じゃあタクシー捕まえて帰ろうか。俺が出すよ」
彼女が「え?」といった顔をする。俺は「いいからいいから」と彼女を連れ出した。
駅でタクシーを捕まえ、彼女を乗せる。そして運転手に「巣鴨まで」とだけ伝え、彼女を送り出した。
タクシーの料金はアプリで決済しておいた。
(便利になったもんだな)
俺はどこか皮肉めいた言葉を、心の中で放つ。その便利さであっても、人の心は救えないのだ。
「いいかい。家に帰ったら家族でも恋人でもいいから、電話して相談するんだ。できるだけ泣いて、また明日から頑張れば良い。どうせ就活に失敗したところで、人生に大きな影響は出ない」
半分は嘘で、半分は本当だ。就活に失敗すればマイナスだ。だが、成功してもそこがよくない職場な場合がある。いや、その場合は割と多い。
(この歳にならないとわからないけどな…)
俺はそうとだけ言ってタクシーから離れる。そしてタクシーの扉が閉まったのを確認して、また早歩きでホームへと戻っていった。
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