壱
縁側に置いた蚊取り豚。
その空洞をぼんやり眺めて、私はため息をついた。
風鈴のチリンチリンという音と一緒に、庭の洗濯物がはためく。
「心配、かけてるよなぁ……」
重い体をひきずるように、縁側へ出ていった私は、網戸代わりのすだれを巻き上げた。
強い日差しに目がくらんだその時──。
黒っぽいボールのようなものが、家の中に突っ込んできた。
「きゃ!」
私は縁側に尻もちをついた。
「いたた……。なんなの?」
四つん這いで振り返ると、バレーボールぐらいありそうな物体が、天井を飛び回ってる。
──黒の炎。黒い鬼火だ。
色んな鬼火に出遭ってきたけど、黒いのは初めて見た。
でも感覚的に判る。
こいつは、やばいやつだ。
きっと怨霊の類──。
「出ていけ!」
私が怒鳴ると、鬼火は空中で動きを止めた。
黒々とした炎の中から、黄色く光る目と、ギザギザした口が浮かび上がる。
「儂が見えるのか……小娘よ……」
しわがれた低い声だった。
──しまった。つい話しかけちゃった。
「美味そうな魂じゃ……ガルルゥゥゥゥ!」
血に飢えた獣のように、鬼火の口から唾液が滴った。
その雫が畳にこぼれ落ちた瞬間──。
私を丸呑みできるほど大きく開いた口が、飛びかかってきた。
「こ、来ないで!」
とっさに振り払おうとして、鬼火の頬にビンタをお見舞いする。
「ぎゃあ!」
悲鳴をあげた鬼火は、スーパーボールのように部屋中を跳ね回った。扇風機を倒し、ちゃぶ台の麦茶をひっくり返し、ご先祖様の遺影にヒビを入れる。
「やめて! お母さんに叱られる!」
「ぎゃ! うぎゃ! がふ! ふべ!」
箪笥にぶつかって跳ね返った鬼火が、こっちへ向かってきた。
「ひっ!」
私は、とっさに畳に伏せる。
頭上を通りすぎていったかと思うと、後ろでスポンッと音がした。何かにハマるような音だった。
そっと振り向けば、縁側の蚊取り豚が、ごろんごろんと揺れている。
揺れは、だんだん小刻みになり、やがてぴたりと止まった。
「そこに、入ったの……?」
おそるおそるブタの器を覗き込んでみる。
けれど、中には蚊取り線香の灰があるだけだった。
「はぁ……。消えたみたいね」
胸をなでおろしたのも束の間──。
ブタの口から黒い炎が噴き上がった。
「きゃあ!」
私は、あわてて部屋の隅まで逃げる。
「おのれ……小娘……」
蚊取り豚の中で黄色い目が光る。
「ま、まだやる気なの?」
「喰わ…せろ……喰…わせろ……ヴゥゥゥゥ!」
「もうやめてぇ」
ブタの器から黒い炎が、ごうごうと燃え盛り、鬼火はまた大きな口を開く。
部屋中の家具が震え上がるようだった。
──もうダメ! 食べられちゃう!
ぎゅっと目をつぶり、身を固くすると──
トットットットッ……
小さな足音が近寄ってくるのが聞こえた。
私は、そっと目を開ける。
「へ?」
目の前にあったのは、縁側に置いてあったはずの蚊取り豚だった。
その中から顔をのぞかせてるのは、黒い鬼火だ。
黄色い目が点になってる。多分、私の目も。
鬼火が不思議そうに下をのぞきこむと、短い前足がトトンッと畳を叩いた。
それから陶器の体は、軽やかに走り出した。
「えぇー」
「走っとる! 儂、走っとるぞ〜!」
「なんで? どうして?」
蚊取り豚を、着ぐるみのようにかぶった鬼火は「ひゃっほー」と声をあげ、部屋中を走り回った。
ねぇ、神様。
私、明日から学校に行けるでしょうか……。
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