失われた技法
鵜川 龍史
失われた技法
遺体安置室には、自主返納された肉体が、規則正しく並んでいる。どれもこれもメンテナンスが行き届いていて、このうち九割が老人だと言われても、にわかには信じられないだろう。
一方、
肉体は、常に品薄状態。意識体の過去最長待ち時間は七年と聞いたことがある。途中で諦めようにも、半覚醒だと思考もできない。タイマーでも掛けておかない限り、王子さまのキスを待ち続けることになる。
どうしても受肉したければ、擬体を使えばいい。作り物には作り物の良さがある。
僕が使っているのは、やわらか素材の肌ざわりさらさらモデル。仕事上も私生活の上でも、何も困らない。
「次、来たぞ」
同僚がチューブで送り込んできた意識体を、肉に振られた番号を確認して、中に注入していく。と、これは珍しい肉だ。二十歳ぐらいだろうか。どれだけ金をかけてメンテしても、肌の質感だけはごまかせない。滑らかな皮膚にゆっくり赤みが差していき、モニター上のありとあらゆるデータが、生命の恢復を記録していく。
ここから先が僕の仕事。肉と意識を
「やった! 若い体!」
目の前で起き上がった肉が叫んでガッツポーズし、鼻から血を吹いて倒れた。同僚たちが手を叩いて爆笑する。やりやがった。
自主返納される肉体には、色々な事情がある。老体の返納は、肉での生活に十分満足した末の選択がほとんどだ。だが、若体はそうはいかない。自主返納先が、事務局ではなく、硬いアスファルトだということも少なくない。その場合の
「肉の死に引き込まれたか」
鼻と耳から血を流して運び出されていく肉を見ながら、同僚が賭けを始めた。意識を摘出する前に肉が完全に絶命すれば、当然、意識も一緒に逝く。
「摘出できない方に五百」指先を弾いて、クレジットをトスした。
「これじゃ賭けにならない」
肉に敬意を払わない奴に、同情する人間はいない。ここは、そういう場所だ。
昼休み。擬体に食事はいらないが、休憩はもちろん必要。高級味覚パッチを小さく切って、共感覚モードで舌に乗せれば、メンタルケアにも効く。
流行りのデザートに耳を傾けながら、ゲートをくぐって外へ出た。外は全方位、だだっ広い
受肉した人間は、
そのプロセスがバカらしく感じる人間は、
ゲートの外は、草のにおいがまぶされた風と、七色に着色された陽射し。周囲を見回すと、
一人でのんびりしたい僕は、人の少ない裏手の方に足を向けた。しばらく行くと、耳の奥にかすかな音が聞こえてきた。こんなところで音楽? 口の中に、パッチが残っていたかと思って舌で舐めまわすが、味覚からスライドした音ではない。
音源の方向を探りながら歩いていくと、人が一人入るのによさそうな卵型のドームが現れた。
バイオリンだ。演奏している。
楽器演奏は
それなのに、これは……。
ドーム越しに聞こえる音は籠ってこそいたが、一本の楽器が奏でているとは思えないほど色彩豊かだった。早いパッセージは軽やかに、ロングトーンは艶やかに。肉を捨てた僕の体に、かつての快感を錯覚させるほどに。
何者だろう。肩幅は広く筋肉質。背中まで伸びた髪は緩くウェーブしている。ドームを回り込んで顔を覗き込む。
「わ」
演奏が止まった。複雑な皺が蜘蛛の巣のように顔中に張り巡らされている。
「邪魔してごめん」僕は温和な表情を作って、男の緊張をほぐそうとした。受肉者に気を遣うなど、初めてかもしれない。「そのまま続けていいよ」
「いや、大丈夫です。そろそろ戻らないと」
男はドームを指で器用に裂くと、足で踏んで
「バイオリン、うますぎない」
「暇さえあれば弾いてるから」そう言って見せてくれた左手の指先は血まみれ、指の関節は内出血で青くなっていた。左の首にも痣ができている。「ここを出たら弾けないし。リミッター外して頑張ってます」
そう言いながら満足そうに笑う男に、いたずら心が首をもたげた。
「せっかくもらった肉体なのに、悪いことしてるって気分にはならないの」
自主返納される肉体は、そのほとんどすべてが金持ちのものだ。
かつては、食料が市場に出回っていた時代もあったと聞くが、今は、食い物を手に入れるにはカネとコネがいる。未成年のうちは、教育とセットで食料も与えられるが、成人して食えなくなれば、自分の肉を売るしかない。そうなる頃には、たいてい
二十二歳だった僕の肉も、そうやって誰かの餌になった。
「だまされませんよ。この体を育てたのは」男は笑いながら、自分と僕のことを順に指差した。「僕たちの肉なんだから」
男の表情にもう緊張はない。目の前の僕を、同種の人間だと認識したのだ。
「
隠微な響きの言葉だ。首を横に振る。
「深夜二時、この辺りで耳を澄ましてみて。原っぱをめくれば、中に入れます」
男はバイオリンをケースにしまうと、
聞き覚えのある音だった。
鞭をふるう音。いや、もっと低音が強い。子どもの頃に一度だけ口にしたことのあるカイコの幼虫に似た、粘っこくて甘ったるい味の音だ。原っぱに耳を近付け、金庫を開ける怪盗のように注意深く、震源を求めて歩き回る。
見つけたその場所を、言われた通りにめくると、熱気と汗の臭いが吹きあがってきた。思わず目を閉じる。懐かしい臭いが混じっている。
血の臭い。
よく見ると、その血は、顔面から流れたものだけではなかった。
拳だ。殴りつけた拳が破壊され、そこからも血がしぶいていた。昼間見た男の指が脳裏をよぎる
それは、公共財である身体への破壊行為であるとして、百年以上前に禁止された。
価値の蕩尽という意味では、どちらも変わらない。演奏行為もまた、何十年という長期間にわたって肉体を酷使し、それでいて何の生産性にも結び付かない。
それならどうして、この不自由な世界を求めるのだ。
バイオリニストが押されている。当然だ。さっきから、相手を殴るのは右拳だけ。左はガードにしか使っていない。弓を持つのは拳が壊れていてもできるが、弦を押さえるのは無理だ。
あんた自身が無事なままなら。
擬体には官能がない。共感覚でごまかされているが、人間に生来備わっている、体の底から湧き上がってくるような肉体的な快の衝動が欠けている。
ここには血にまみれたボロボロの老人と、それを取り巻く受肉者の群れがいるだけ。殴り合う音と血の臭い、そして野蛮な飢えた歓声しか存在しない。どちらも、擬体となった僕には理解不能なはずだ。
それなのに、白くてやわらかい
僕は梯子から飛び降りると、観客を押しのけて、スポットライトの下に躍り出た。
バイオリニストが顔中に蜘蛛の巣のような皺を浮かべ、次に大声で笑った。
二人の間に僕は足を進める。二つの拳が僕の顔にめり込む。
血の通わない僕の顔は、
(了)
失われた技法 鵜川 龍史 @julie_hanekawa
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