血の絆
まだ雪の残る街路を、二頭の馬が進んでいく。
騎乗しているのは、深くマントのフードを被った男と、ロマ特有の鮮やかな衣類を纏い、額を一周するように布を巻いている男。
エスタとオーリだ。
二人の間には殆ど会話がない。オーリは平然としているが、エスタは苦虫を噛み潰したような顔だ。
彼らは徐々に、身分が低い者たちが住む地域へ入っていく。
そして、一軒の家の前で馬を停めた。
エスタは、慣れた手つきで玄関のノッカーを叩く。
いつものように、さほど待つこともなく扉が開いた。
「お待ちしておりました」
うやうやしく言葉がかけられる。いつものように。
暖かな居間へ通される。物珍しそうに、オーリは周囲を見回していた。
「イフテカールのことは、知っているか」
居心地悪げに、エスタは問いかけた。
初老の男は、ぴしりと背筋を伸ばしたまま口を開く。
「はい、エスタ様。こちらへ来られるのに、随分と時間がかかられたのですね」
「色々と交渉していたんだ。……イフテカールの『本』を渡して欲しい」
「交渉、でございますか?」
エスタの要求に関しては一切触れず、忠実な家令は問い返した。
「ああ。それを火竜王宮に渡せば、イフテカールに従っていた者たちに関しては不問にする、という確約を手に入れた。どのみち、イフテカールがいなくなってしまっては、あの本には全く力は残っていない。悪い取引ではない筈だ」
「偉大なる龍神とその使徒がおられなければ、竜王が我らを恐れる理由など一切ないことを考えなければ、ですな」
面と向かって言い返す男に、オーリが僅かにむっとした表情を向けた。
が、エスタはにやりと笑む。
「その通りだ。……渡してくれるか?」
「お待ちくださいませ」
滑らかに一礼すると、家令は部屋を出る。
「言ってくれるじゃないか」
オーリが小さく呟いた。あの男は、彼がここに存在しないかのように振舞っていた。
「この場は私に任せるということになっているだろう。そもそも、私も、別に竜王宮と和解した訳じゃない」
憮然として、エスタが返した。
「都合がいいね。グランの厚意で、大公家が竜王宮から解放されたっていうのに。ああ、君は大公閣下に認められていないから関係ないのかな?」
オーリは一見平静を装ってはいるが、一時は仇と決めた青年に対し、やはり未だ思うところがあるらしい。挑発するような言葉を放つ。
エスタの視線が、更に険悪さを増す。
直後、タイミングを計ったように、扉の外から声がかけられた。
入ってきた家令は、濃い飴色の革表紙の本をエスタに差し出す。
青年はそれを手にとって、ぱらぱらと捲る。あるページでその手を止めた。
「間違いないな」
オーリが覗きこむ。
見開きのページには、ただ一行、エスタの名前が書かれていた。
「何だい、これは」
「イフテカールとの契約書だ。ここに、血で名前を書くことで、奴と契約を結ぶことになっていた」
「血?」
あからさまに眉を顰めて、改めて視線を落とす。
名前の綴りは滑らかとは言えず、所々、インクが掠れてしまったり、逆に塊になっている部分もある。
「ぞっとしないな……」
呟いて、ふと指を伸ばす。
「そこ。破れていないか?」
エスタの角度からは見えない場所に、羊皮紙の欠片が挟まっていた。開いてみると、ページが丁寧に破られた跡がある。
「そこには、わたくしの名前がありました」
礼儀正しく、家令が言葉を挟む。
「お前の?」
驚いたように、エスタが返す。
老いた家令が、片手を胸に当てた。
「もう、あのお方との繋がりはこれしか残っておりません。何の力でもないのであれば、どうか、私の元に残すことをお許しください」
僅かに戸惑って、青年たちは顔を見合わせた。
「……念のために、名前だけ控えさせて貰えばいいんじゃないかな」
オーリの言葉は、しかし完全に無視されてしまったため、エスタが改めて家令にそれを伝える。
彼が羊皮紙とペンを取りに再び場を外した間、ひとしきり罵声と嫌味を漏らす高位の巫子に、〈魔王〉の
◇ ◆ ◇ ◆
数日後、アルマは大公家の屋敷へ一度戻っていた。
来客を迎えるためである。
訪れたのは、五十代の男性。髪は濃い褐色で、同じ色の口髭を蓄えている。明るい青の瞳は、興味深げに少年を見つめていた。
「ようこそおいでくださいました。アルマナセルです」
マノリア伯爵は小さく笑んで、アルマの手を握った。
「私如き若輩がお目にかかることになり、申し訳ない。父もグラナティスも、まだ数日起き上がれないようですので」
二人とも、未だ火竜王宮で静養しているのだ。
「お気になさらずに。また機会もありましょう。それに、まず貴殿にお会いしたかったのですよ」
穏やかにそう返してくるが、改めての会見を要求してきてもいる。マノリア伯爵領は、イグニシアの北部、ほぼ辺境と呼ばれる地ではあったが、領主は決して侮られる存在ではない。
穏やかに、マノリア伯爵は続ける。
「貴公のことを、あれは熱心に手紙に書いて寄越していましたのでね」
「それは……、お恥ずかしい」
おそらく、イグニシア王国を裏切ることにもなる手紙のことだ。
テナークスが、一体どんな風に領主である兄へ書き送っていたのか。彼は、実際以上に他人を誉めそやすような人間ではなかったが、しかし。
「会えてよかった」
小さく告げて、そして伯爵はふいに真面目な表情で口を開く。
「それで、テナークスはどのようにして死んだのですか」
この貴族が、わざわざアルマを訪ねてきた、理由だ。
下手な対応はできない。それは、よく判っていたけれど。
……ああ。よく、似ている。
彼の死から、まだ十日ほどしか経っていない。未だ、喪失の痛みは強く、アルマの心を締めつけた。
ひとしきり語り終えると、沈黙が満ちる。
居心地が悪く、アルマは再び口を開いた。
「私の力が及ばず、テナークス殿に無念の死を強いてしまいました。申し訳ない」
深く、頭を下げる。
どれほど詫びても足りる気はしない。
「顔を上げてください、アルマナセル殿。貴殿が、歴戦の名将だなどと、誰も思ってはおりませんよ」
穏やかに執り成してくれるが、言っていることはきつい。
彼も間違いなく、イグニシアの貴族である。
「自ら戦場へ出て行ったのは、愚弟の判断です。あれは指揮官であるのだから、背後に下がっていてもよかったものを」
「しかし、それは私が彼を戦場へ追いやるような条件を飲んでしまったせいで」
「そのような状況になる前から、テナークスは戦場に出ていた筈ですよ。覚えておられませんか?」
確かに、彼が
尤も、あの時も王国軍に対して降伏を勧告する、という任務があったから、ともとれるが。
だが、伯爵は溜め息をつきつつ首を振った。
「あれは昔から血の気が多いのです。我々家族は、少なくとも弟が礼儀正しく振舞えるようになるまで、かなり苦労したものですよ」
驚いて、目を見開く。
アルマの知っているテナークスは、生真面目で冷静だった。礼儀や慣習に反することには怒りを見せがちではあったが。
「意外でしたか?」
「え……ええ」
「なるほど。手を焼いた甲斐がありました」
兄は、小さく苦笑する。
彼らは、しばらくの間ぽつぽつと思い出話をしていた。
「私はしばらくの間、王都に滞在します。またお会いできれば嬉しいですよ」
そう告げて、マノリア伯爵は大公家を辞した。
おそらく、竜王宮側についたことを最大限利用し、今後の権勢を握ろうというのだろう。
だが、それを咎めるつもりはない。
テナークスは、王国のために、アルマのために、そして仕える主君のために生きていた。
その死の上に何も得られないなど、あってはならない。
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