目覚め
そして、瞼を開いた瞬間の、呼吸の軽さに驚いた。
現実が把握できなくて、しばらく呆然とする。
視界に入るのは、見慣れた竜王宮の天蓋だ。傍らの小さな卓に燭台が置かれ、蝋燭の炎が揺れている。
ゆっくりと片手を上げた。小さな白い手には、膿み爛れた痕はおろか、傷の一つも見受けられない。
「……夢、か……?」
混乱して、小さく呟く。
火竜王宮を出て、長い旅をしたことも。
イフテカールと龍神をこの世界から追放したことも。
腐敗が進み、もう幾らも身体が保ちそうになかった、ことも。
溜め息を落とし、ゆっくりと身を起こした。その身体がぴたりと止まったのは、動かすのに支障があったからだけではない。
壁際に椅子を寄せて座る、金髪の男と赤銅色の髪の少女。二人とも深く眠っているらしく、身動き一つしない。
そして男の頭の上からは、異形の竜王がじっとこちらを見つめてきていた。
「……地竜王、エザフォス」
『気分はどうじゃな、カリドゥスの子よ』
グランは、一気に記憶が蘇る感覚に、目を閉じた。
「夢では、ないのですね」
『応。ぬしらは首尾よく、龍神ベラ・ラフマを放逐した。上出来じゃ』
淡々と告げられる言葉に、ぎゅぅ、と拳を握る。
「では何故、僕は生き延びているのですか」
龍神はこの世界から消えた。
ならば、その龍神の力を利用する、幼き巫子の延命手段はもう使えない筈だ。
だが、地竜王は淡々とそれを説明する。
『ニネミアの子が、まずこの地まで先行し、巫子たちにそなたの状況を伝えた。そして、わしらが龍神を送ったあの地より、馬車を仕立てて全員で移動した。ここに着いた時には、どうやらもう準備が整っておったらしいな。どうも出力とやらが足りなかったようだが、あの〈魔王〉の子らが、無理矢理動かしおったよ』
「〈魔王〉の、子ら……」
アルマと、エスタ。
アルマの〈魔王〉化を解いたのは、それを成せないように、という思惑もあったのだが。
まさか、エスタがグランの
おそらくレヴァンダル大公家当主の
「余計なことを……」
溜め息をついて、どさり、と寝台に倒れこんだ。
失望感に、起きている気力が失せたのだ。
『前にも言うたであろうが。カリドゥスの巫子、グラナティスよ。そなたの
地竜王が続ける。おそらくは、したり顔で。
「そんなもの、火竜王の前では一片の価値もない」
小さく呟く。
竜王は、巫子を大事にするだろう。生きて、利用価値がある間は。
だが人間の
巫子の
彼の肉体が、幾ら消費されていようと、今までに一度たりとも。
『だから侮っておる、と申しているのだよ。幸い、そなたには時間が与えられた。使命にも恨みにも惑わされず、しばらく考えてみるがいい』
しかし、地竜王はなおもそう告げる。
グランはそれには答えなかった。
『さて、そろそろこやつを起こしてやろうかの』
のそり、と、異形の竜王は金色の髪の上で身じろぎする。
「疲れているのでしょう。寝かせておいてやればいい。全く、妙なところで義理堅い奴らだ」
地竜王と二人きり、というのは、少しばかり歓迎できないが、しかしグランはそう提言した。クセロを起こせば、仲間たちが大挙してやってくることは容易に予想できる。冷静になれるまで、もう少し時間が欲しい。
まだ混乱しているのか、なかなか思考はまとまらないが。
もしも落ち着いて死が迎えられる時が来たら、彼らに何を言い残そうか、とふと考えた。
◇ ◆ ◇ ◆
龍神との戦いより、二日後。
アルマとクセロは、王宮の中を歩いていた。
イフテカールは王宮の内部に多くの拠点を設けていた。それを逐一探し出し、残された遺物を回収するのが目的だ。
アルマは王宮に詳しいし、クセロは地竜王の御力で龍神の気配を感知することができる。
既に幾つかの部屋を巡り、次の拠点へ向かっている時だった。
「あら」
目の前の部屋から、ステラ王女が姿を現した。
「ごきげんいかが、アルマ?」
「かなり疑わしいところだよ、ステラ」
あからさまに胡散臭い顔で、アルマは答える。
「社交辞令も忘れてしまったの?」
呆れた顔で、ステラは返した。
「そろそろここでは体面を取り繕う必要がなくなったんだ」
あっさりと返された返事に、やれやれというように王女は溜め息を落とす。
「それはそうと、もう一人誰かいたようだけど……」
クセロは、最初のやり取りを始める前に、素早くどこかへ姿を消していた。
懸命な判断だ。
「俺の仲間を毒牙にかけないでくれ」
「酷い言い方ね。ノウマードなの?」
「いや。あいつは、今日は街に行っているよ」
ふぅん、と呟く。
「まだあいつを殺したいのか?」
緊張しつつ尋ねる。が、ステラはそれに苦笑した。
「まさか。あの日、傷を治して貰った時に、色々事情は聞いたのよ。傷痕一つ残さないでくれた恩もあるしね。……見る?」
「それについてはあんたの言葉を信じるよ」
軽くドレスの裾を持ち上げかけた少女に、きっぱりと言い渡す。ステラは楽しげに、ころころと笑った。
「今日は何のご用事?」
「イフテカールの巣穴を探してるのさ」
「ああ、彼の部屋ならこっちよ」
さらりと告げて、廊下を歩き始める。イフテカールは、ステラの公然の愛人だった。彼女の宮殿に部屋を持っていても、不思議はない。
「あいつはどんな男だったんだ?」
ぽつり、と尋ねる。
「それは夜の話?」
「一般的に、だ」
ぴしゃりと断言する。ステラは面白そうに見上げてきた顔を、ふと暗くさせた。
「従順だったわ。私のどんな要求にも、滞りなく応えてきた。一つだけ、ノウマードを捕らえて来い、というのは無理だった。だから、それが少し不思議だったの。ノウマードがただのロマでなかったことで、少し判った気がしたけど。……でも、彼にした他の命令は、本当に私が望んだことだったのかしら。イフテカールが、自分にできることを、私に命令させていたのではないのかしら」
王女の信頼を勝ち得るために。
「奴にできなかったことなんて、殆どないんだろう」
アルマは憮然として呟いた。
龍神の祀られていた礼拝堂で、彼女はイフテカールにいいように操られている。
自分の意思が、一体どこまで本当に自分のものだったのか。その曖昧な境界に不安を持っていたステラは、小さく、そうね、と返す。
「ずっと小さな頃から、傍にいた気がしていたの。姿が変わっていなかったから、思い違いだと思っていたけど。私は、彼に育てられたようなものなのかもね」
しんみりと続ける。
やがて質素な扉の前で彼女は立ち止まった。
「遺品は、全て持っていってしまうの?」
「いや。必要なのは、力を残しているものと、あいつの陰謀に関わるものだけだ。日用品なんかは持っていかないよ。あんたが好きに処分したらいい、ステラ」
「そうね。ありがとう、アルマ」
細かいレースで編まれた手袋越しに、片手を少年の頬に触れる。そのまま指先が長く延びた角を辿り、先端に被せられた金製の飾りから下がる、滴型のアメジストを軽く摘み上げる。一見無邪気な、悪戯っぽい視線を流した後でステラは廊下を戻っていった。
「……おっそろしい女だな」
どこからか、しみじみとしたクセロの声が響く。
「
半年前、オーリにした忠告を再び口にして、アルマは扉に手をかけた。
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