悲願

 龍神と対峙している間に、背後でざわり、と気配が動く。

 ……きた。

 ちり、とうなじの毛が逆立つような気配とは裏腹に、期待に心がざわめいた。

 アルマが、〈魔王〉アルマナセルが戻ってくる。


『……待つつもりでいるのじゃな?』

 地竜王が確認するように問いかけてきた。

 あえてそれには答えない。

 どうせ、グランの意思など竜王には筒抜けなのだし、彼はアルマを見殺しにしたことで、未だこの古き竜王に密かに腹を立てていた。


 背後の気配が、次第に濃密さを増す。

 それがゆらり、と動いた頃に、流石に気づいたのかオーリが振り向いた。

「グラン……!」

 喘ぐような声に、だが、グランはただ真っ直ぐに少年に向き合った。

 存在を大きく変化させた彼は、ほんの小さな仕草一つで、仲間たちを捕えていた龍神の罠を崩壊させる。

「全く、俺がちょっといない間に、お前らは何もできてなかったのかよ?」


 軽く、泥のこびりついた聖服の裾をはたく。その音に紛れさせて、小さく溜め息を落とした。

 成功した。

「お前こそ、随分と時間がかかったじゃないか」

 気を取り直して皮肉を言うと、アルマは見るからに顔を歪めた。

「俺がどんだけ酷い目に会ったと思ってるんだよ。まだ身体中がみしみしするぜ」

 以前、魔力を成熟させる時も、かなりの負担がかかったようだった。存在を転換させるのは、確かにそれ以上なのかもしれない。

 とりあえず、ざっと全員に状況を説明する。エスタもその場に加わり、彼らは行動を開始した。


「僕が地面に形を作る。それをなぞるように、魔力を流しこめ。形を変化させるなよ、効果がなくなってしまう」

「それぐらい判っている。私に命令をするな」

 アルマとオーリが地上を離れたところで、グランはエスタに説明を始めていた。

 アルマが立てた作戦だということもあり、渋々とそれに従っている青年だったが、それでもグランに対してはまだ思うところがあるようだ。

「命令ではない。指示だ。頼む」

 長身の男を見上げ、告げる。

 それは何が違うのだ、と言いたげな相手はもう放置して、右手を延ばす。

「我が竜王カリドゥスの御名とその燃え盛る誇りにかけて。邪なる龍神を縛り上げる縄をえ」

 足元の石畳が、淡く赤い光を放つ。

 それは見る間に左右へ広がり、巨大な円を描いた。その内側に滑るように様々な直線や曲線、文字のような文様を描いていく。

 陣をぐるりと回りこむように、エスタは移動した。グランから円の中心を経て正面の位置に跪き、両手を陣の傍に置く。

 慎重に魔力を流しこんでいく様子をしばらく見守る。順調であることを確認し、グランは頭上を見上げた。

 やがて、地竜王が顕現する気配が感じられる。

 陣を示す淡い光を、やや抑えた。奴らに勘づかれては、意味がない。


 赤黒く蠢く闇が、こちらへ向けて落下してくる。

 それは地響きを立てて石畳へと激突した。

 同時に、グランが抑制を解き放つ。

 真紅の光に晒されて、闇が泡のように崩れ、溶けて、消えていく。

 巨大なる龍神と、その掌に跪いているイフテカールの姿が露になる。

 憎悪を籠めた視線が、真っ直ぐに向けられた。

「グラナティス……!」

 もう、彼に侮られない。もう、生命いのちを掴まれたりは、しない。

「僕を生かし続けたのが、お前たちの敗因だよ。イフテカール」

 嘲りと、何よりも歓喜が湧き上がり、浮かび上がる笑みを抑えられない。

 アルマが無造作に龍神を縛る陣へと踏み入った。

 抵抗する意思を見せたイフテカールを、陣の外へと放り出す。

 そのまま〈魔王〉のすえが龍神の四肢を、風竜王の高位の巫子が頭部を傷つける。

 そして、龍神を閉じこめる陣は、煮えたぎる溶岩の坩堝るつぼと化した。


『何故だ! 何故、この儂が、龍神である儂が、このような人間如きに!』

 龍神が絶叫する。

 その身は、遥か眼下に満ちる溶岩にゆっくりと沈んでいった。

 視界の隅に、ゆらりと動く影がある。

 グランの正面、エスタのすぐ傍で、イフテカールが立っていた。

 二人は何か話しているようだが、その内容は聞こえない。。

 金髪の青年は、小さく笑みを浮かべたようだった。

「……イフテカール」

 グランが呟いた名前は、決して耳に届いてはいまい。

 幼い頃から見知っていた、現在ただ一人生存する人間が、その身を地獄へ向けて落下させる。

 何とはなしに、視線を上へと向ける。

 熱気に滲む視界に、明るくなってきた空が映し出された。




 王女を救い出して戻ってきたアルマを、目の前に座らせる。

 このまま〈魔王〉の状態で彼を放置しておくのは、少々危険だ。

 一通りの説明を済ませると、アルマは驚いたような、困ったような顔で見返してきていた。

「……お前、ここまで考えて」

「陰謀を巡らせているなかで、奴らを倒した後どうするか、が一番楽しかったよ」

 顔を僅かに伏せて、呟く。

 奴らを倒した後に。

 そんなことは、もう悩むまでもない。

 〈魔王〉の額に片手を触れさせる。

 そして、グランは彼を人へと変異させた。

 苦痛にのたうち回る少年を、慣れた口調でクセロに抑えつけさせながら。


 とりあえず順調に事は進み、その場をペルルとクセロに明け渡す。

 仲間の注意は、アルマの傷へと向いている。誰も、こちらを見てはいない。

 少し離れた場所まで、ふらつきながら歩く。

 そして、瓦礫に背を預けて座った。


 龍神とその下僕を倒した後に、なすべきこと。


 軽く目を閉じる。

 ただの呼吸が、随分と重い。

 だがそれも、もう少しの間だけだ。


 そう。すぐに。




 火竜王の高位の巫子、不死なる幼き巫子グラナティスは、その意識をゆっくりと闇へ沈めた。

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