帰還
薄暗くなった空の下で、思ったほど野営地は騒いでいなかった。ひょっとしてまだばれていないのか、と淡い期待を持ったほどだ。
だが、荷馬を繋いでいる場所から数百メートル離れた丘の上で、二人の兵士が馬に乗って周囲を警戒していた。
こちらに気づくと、一人は素早く野営地へ戻り、もう一人が駆足で向かってくる。
覚悟を決めて、それを見つめる。
声が届く距離まで来ると、一端足を止めた。距離があると、蹄の音で何を言っても聞こえないからだ。
「アルマナセル様?」
「ああ」
短く答えると、ほっとしたように兵士は近づいてくる。
「姫巫女もご無事でしたか。ご案内致します」
「自分の野営地だ。自分で戻れる」
素っ気なく応対したが、兵士は頑として譲らなかった。
「まずは副官のところへお出で下さるようにと言づかっておりますので」
副官、か。
覚悟はしているが、気が重い。
視界の端に、ペルルが肩を落としてついてきているのが見える。
そして反対側には、酷く気楽な表情のノウマードがいた。
短く、息をつく。
その場の誰にも、不審に思われない程度に。
野営地で馬を下りると、数人の兵士が待機していた。
馬の世話は彼らがする、というのでついでにノウマードの馬も頼んでおく。
兵士が三人を案内したのは、予想通り副官の天幕だった。
予想していなかったのは、彼が天幕の前で仁王立ちで待ち構えていたことだ。おそらく、天幕の中で待っていると思っていたのだが。数歩下がって控えているエスタも、険しい顔をしている。
普段、部下に示しがつかないって小言を言う人間のやることじゃないよなぁ、と思いつつ、とりあえず先手を打った。にこやかな笑みを浮かべ、口を開く。
「お待たせしました、テナークス殿」
「アルマナセル殿……! 貴公、何を」
勢いこんで声を上げる副官に、軽く手を振り、背後を振り向いた。
「ではペルル様、お疲れ様でした。彼に天幕まで案内させますので、ごゆっくりお休みください」
指先で、傍にいた兵士を呼びつける。当の兵士は、吃驚した顔で副官とこちらを見比べていた。
「アルマナセル様、私からもお話を……」
「今後の行軍に関する相談がありますので、姫巫女にはご遠慮頂きたい。また明日、お会いしましょう」
彼女へ優雅に一礼して、兵士をじっと見つめる。慌てて、彼はペルルを促して歩き出した。
「アルマナセル様、そちらは?」
やや冷静な声で、エスタが尋ねてくる。視線は、一人残ったノウマードに向けられていた。
「ああ、彼はノウマード。今日、ちょっと世話になったんだ。彼は王都に行きたがっているから、一緒に行けば都合がいいと思ってね」
ノウマードは僅かに驚いたように目を見開いたが、すぐに恭しく頭を下げた。
「なるほど」
短く返事を返すエスタの顔からは表情が消えている。
「彼を頼む、エスタ。余りいい待遇はできないかもしれないが、構わないな?」
「勿論ですとも」
楽しげな視線を向けて、ノウマードが快諾する。二人を見送ってから、殊更ゆっくりとアルマは副官に向き直った。
「……貴公は、何を……!」
「中で話しましょう、テナークス殿。こんなところで軍議は非常識だ」
そこでようやくテナークスは言葉を飲みこみ、身を翻すと肩をいからせて天幕へと入っていった。
入口の垂幕が完全に下りてから、長く溜息をつく。
よし、と小さく呟いて、後に続いた。
◇ ◆ ◇ ◆
一時間ほど後に自分の天幕へ戻ると、エスタは穏やかな顔で待機していた。
「お疲れ様でした」
「……嫌味ったらしいな」
眉を寄せて、呟く。それには反応せず、エスタは慣れた手つきでマントを取り去っていた。だが、普段つけているものではなく兵士のマントだったせいか、処置に困ったらしい。とりあえず傍らの椅子の背にかけている。
「お怪我はありませんでしたか?」
「ぶつけた。肩と頭だ」
どさり、と椅子に座る。溜息をついて、青年は服に手をかけた。上着を脱がせ、中に着ていた肌着を大きくはだける。左腕の付け根近くが、直径五センチ程度の痣になっていた。
「痛みますか?」
ゆっくりと押されて、僅かに顔をしかめる。
「もの凄くでは、ない」
なら腫れてもいないし、大丈夫でしょう、と呟いた。アルマの頭に巻いている布をゆっくりとほどいていく。
「さて、一体何のおつもりだったのか、正直に話して頂けますね?」
別にそんな意図はないのだろうが、しかしこの体勢は急所を握られているようなものだ。軽く肩を竦め、少年はざっくりとした説明を始めた。
「莫迦な真似をしたものですね」
怒るよりも呆れたように、エスタは零す。
「俺がいないのを見つけたのはお前か?」
「ええ、まあ。でも、昼食の時間にはばれるとお思いにならなかったのですか?」
「ああ、飯を断っておけばよかったのか」
減らず口に苛立ったように、ぐい、と少年の頭をねじ曲げる。
「痛ぇよ」
「我慢してください。……こちらも痣になっているぐらいですね。大したお怪我でもなくて幸運でした」
片手に纏めていた布を広げ、手際よくもう一度アルマの頭に巻いていく。
「それにしても、あのロマですが。ノウマード、と言いましたか」
「知り合いだったか?」
アルマの言葉に、小さく鼻を鳴らす。
「私がロマに近づく訳がないじゃないですか」
「そりゃそうだ」
笑い声を立てると、じろりと睨まれた。まだ、彼の機嫌は直っていない。むしろ逆撫でしているのだから、当然だが。
「単語に聞き覚えがあるというだけですよ。確か、フルトゥナの方言で、『放浪者』という意味だったかと」
「放浪者、か。似合いすぎだな」
「偽名でしょうね」
最後に布の緩みをチェックしていたエスタは、ぽん、と軽く頭に触れた。
「悪いな。……ノウマードから、目を離さないようにしておいてくれ」
「手配しています。テナークス様の方は?」
「適当にごまかした。納得はしていないだろうけど」
ふむ、と顎に手を添えて、エスタが考えこむ。
「あの方は、マノリア伯爵の累系でしたね。手を回させましょうか」
「いや。俺もそれは考えたが、テナークスはどうも堅物に過ぎるな。逆効果だろう。むしろ、ハスバイ将軍からやんわりと言って貰った方がいい。どうせ、奴の報告は向こうにも回るんだ」
「了解しました。早馬を出しますか?」
「目立ちすぎる。次の街で、駐屯している士官にでも適当に伝言を頼もう。テナークスのものと二通持っていくことになるかもな」
小さく笑い声を上げる。やれやれと言いたげに、エスタが頭を振った。
「どうせこの先軍人になる訳じゃない。帰国するまで無難に過ごせればいいさ」
「だったらこんな真似はもう二度としないでください」
脱がせたままだった上着を着せ直す。それについては約束せず、アルマは立ち上がった。
「さて、じゃあ行くか。マントを頼む。いつものだ」
「どちらへ?」
戸惑ったように、青年が尋ねた。いつもなら、このまま夕食を摂り、その後に就寝するだけだ。
にやり、とアルマは笑みを浮かべた。
「ペナルティだとさ」
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