水の章

丘の上にて

 月が、よく晴れた夜空に浮かんでいる。

 白い光に照らされているためか、見下ろした大地は実際以上に冷たく見えた。じっとりと冷気が身体に染みこんでくる。

 昼間は、それでもまだ暖かいのだが。小さく身震いをして、青年は溜め息をついた。

「……退屈ですね、ニネミア」

 吹き抜ける風だけが、その呟きに応えている。一面に続く草原に、渡っていく軌跡を残しながら。

 崩れた岩山の上に座ったまま、青年は軽く身体を伸ばした。

 その時、急激に巻き起こった突風が、彼の額に巻かれた布をはためかせた。緑の地色に黒で奇妙な模様が描かれたその布は、不規則な動きによりそれ自体が何やら生き物じみて見える。

「莫迦な……っ! 一体、何が……?」

 しかし何に驚いたのか、青年は弾かれたように立ち上がると空を見上げた。満天の星をぐるりと一瞥する。

 その視線が、ぴたりと北西の空で止まった。眉間に皺を寄せて、じっと一点を見つめている。

「……なるほど。面白くなりそうだ」

 どれほどの間、そうしていただろうか。やがて、青年は薄く笑みを浮かべ、小さく呟いた。




◇ ◆ ◇ ◆




 アルマナセルは退屈していた。

 カタラクタ王国の奥深く、王都に近い場所まで進軍してきている今ですら、彼は退屈だった。

 そのことについて彼を責めるのは、いささか酷なことだろう。彼は軍人ではない。彼はまだ十六歳の少年、貴族の子弟、一介の学生に過ぎないからだ。

 彼がこの軍に参加しているのは、ひとえに先の大戦で重要な役割を果たした家柄に生まれついたという、ただそれだけの理由でしかなかった。早い話が、縁起物扱いである。

 司令部もそのことはよく判っていた。アルマナセルはこの四ヶ月というもの、司令部の奥に控えているばかりで、実戦に参加することはおろか、会議において発言すら求められることはなかった。

 別に血に飢えているわけではないのだが、この日常は彼に暇を持て余させるに充分だ。今なら、しばらく放っていた歴史学の論文でも書けそうな気がする、と少年は奇妙な確信を抱く。資料さえ、この場にあれば。


 彼の背後には二十五万の兵が街道を進み、その更に背後には、街や畑を焼く煙が細く立ち昇っていた。イグニシア王国軍の戦果である。

 もう何日も前に通過した土地のことだというのに、何となく空気にいがらっぽさを感じ、少年は小さく咳をした。

「お苦しいのですか、アルマ様」

 やや後方で馬を進めている青年が、身を乗り出して小声で尋ねてきた。彼の名はエスタ。アルマナセルの世話役である。

 年齢が十ほども上の彼を、アルマナセルは半ば兄のように思っていた。が、いわゆる反抗期の真っ只中である少年は、ぶっきらぼうに別に、とだけ呟いてそれを流す。

 王都までは、真っ直ぐ進んだとしても、およそあと一月ほどの道程である。全く何事もなかったとして、だ。戦闘や捕虜の処遇やその他雑多な事柄が。

 いや、これほどの軍勢を率いている以上、予定に対する遅れは積み重なっていく一方だ。決して早まったりはしない。

 アルマナセルは、こっそりと溜め息をついた。




 軍隊よりも先行すること二時間。前方を偵察していた一小隊が、彼女を発見した。

 王都に比べれば規模は小さいものの、重要度においては遥かに勝る都市、フリーギドゥム。カタラクタ王国がまつる水竜王の名を冠したこの都市は、竜王宮を中心として構成される宗教都市である。

 その城壁をのぞむ小さな丘の上に、一本の白い旗が立てられていた。そしてその旗のすぐ側に、しみひとつない聖服に身を包んだ少女がただ一人、毅然とした表情で立っていたのだ。




 伝令によって、全軍の停止が告げられる。

 やがて急遽立てられた大天幕に、アルマはむっつりとした表情のまま入っていった。

 この軍を指揮するハスバイ将軍のすぐ傍の椅子に座る。地位だけは、扱いに比べると格段に高い。そう皮肉げに考えて、少年は軽く笑みを浮かべた。

 その後数分ほどで司令部の面々が顔を揃えた。ハスバイ将軍がぐるりとそれを見回し、声を上げる。

「さて、めでたい報せがもたらされた。敵は、全面降伏を申し出てきたのだ」

 驚いたようなざわめきが起きる。この戦いでぶつかりあっているのは二つの大国だ。軍の優劣としては、彼らイグニシア王国が勝るものの、国の威信にかけても、敵はそう簡単には引けない。おそらく、戦は長引くだろうというのが大方の見方だったのだ。

 無秩序な声を威圧するように、将軍が更に続ける。

「降伏を知らせてきた使者は、水竜王の高位の巫女だ。彼女の言葉はそれなりに重みがあると見ていいだろう。但し、条件をつけてきた。全面降伏の代わりに、これ以上の戦闘及び殺戮を中止しろ、とのことだ。王族は勿論、下位の民に至るまで」

 その言葉に対するざわめきは僅かだった。相手に戦意がないのに、無理に戦いを続けても意味はない。こちらの被害も多少は出ることを考えれば尚更だった。

 殊更、武勲を立てたいと望むほど、血の気の多い男爵は少なかった。三百年もの間、王国は実に平和であったのだから。

 しかし、王族に対する扱いはまだ決定していない。戦争の経緯次第で決まるものだ。

 尤も、彼らを殺さなくてはならないほど事態は悪化していなかった。この先、抵抗が全くないというのなら、尚更だ。一応、本国に指示を仰がなくてはならないだろうが。

「我々はこのまま進軍し、王都カルタスを支配下におく。水竜王の巫女については、前々よりの命令に基づき、直ちに我らが本国へ護送することになる。一連隊もいれば充分だろう」

 アルマは、ぼんやりとその言葉を聞いていたが、その時点で軽く片手を上げた。

「将軍」

「何か? アルマナセル殿」

 態度だけはうやうやしく、ハスバイ将軍が答える。軍の地位はともかく、爵位で言うとアルマは大公子である。そうそう無礼な応対はできない。

「これから先は本格的な戦闘がないと予測されるなら、巫女の護送は私が引き受けましょう。これ以上、私の出番はないでしょうからね」

 微かに自嘲気味な笑みを浮かべる。今までも彼の出番はなかったことは周知の事実である。

「む……まあ、そうですな。経験豊富な副官をつければ、大丈夫でしょう。全面降伏したとはいえ、戦場跡を通っていくのはいささか物騒ですし」

 将軍は、深く考えることもなく同意した。確かに、他の者を護送の任に当てるよりも無駄はないだろう。

 アルマは、内心安堵の溜め息をついた。これで、この退屈な日常からは逃れられる。……少なくとも、本国に帰る時期が早まった分だけ。


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