第6話 やがて蝕まれる景色

 それからしばらくして臼木さんは学校を休みがちになっていった。


 ネットは流行り廃りのある、せわしない時代だ。

 俺が希久と不純異性交遊しているのではないかという噂は、互いの火消しの効果もあって、あっという間に鎮火して忘れ去られた。

 それ自体は良いことだが、クラスに臼木さんが居ないせいで俺はなんとなく空虚な日々を送っていたんだ。



 そのうち臼木さんとまた日直をする日が巡って来た。

 俺のクラス在籍生徒は奇数だが、一瞬だけ小院瀬見が居たおかげで偶数となり、そこで男女の順番の乱れが正された結果だ。

 そういう意味では小院瀬見つくづくグッジョブ。あいつは元気だろうか。


 俺はせめてあの子の負担を減らそうと、出来る限りのことをやった。

 休み時間には黒板をピカピカに磨き上げ、日誌を書き、課題の回収やプリント配布もぜんぶやった。

 


 そんで、教室の施錠を終えて鍵を返したら日直の仕事は終了。

 今日の日誌と共に教室名の書かれたプラスチックのキーホルダーを持って臼木さんと一緒に教員室に向かう。


 そこまで一緒だと、なんとなく帰宅するのも一緒。

 校門を出たところで臼木さんは俺に話しかけてきた。


「榎戸くん、今日はありがとう」

 以前と変わらず俺に謝意を伝える臼木さん。

 でもその表情は暗い。

 体調が思わしくないのもあるだろうし、結果として俺が張り切り過ぎたせいで彼女の心理的負担になってしまったのではないかと悩んだ。

 それに自身のコメディの神から与えられた能力も非常に微妙なものに思える。

 それゆえ健太は自身の選択を――。


 おっと、出やがったな、地の文のオッサン。


 臼木さんの病気が進んだのは一目瞭然だし、俺が近くに居るから出しゃばってきやがった。でもそう思い通りにさせてやるかってんだ。

 ところが、ナレーションに抗った俺にも激しい頭痛が襲う。

 まるで地の文のオッサンの呪詛にかかったみたいだ。

 思考を正常に保とうとすればするほど脂汗が出て、物事に集中できない。


「わたしいつも榎戸くんに迷惑かけてばっかりだね。自分でも情けないって思う」

「そ、そんな……ことは……」

 俺は臼木さんに苦笑を浮かべる。

 まるで俺が臼木さんの言わんばかりだと困って二の句を継げないみたいだ。

 そうじゃないんだけど、まさか俺が脳内の声とバトルしてるなんてアブない妄言は決して言える訳ないんだが……ぬおぉっ……頭が痛てぇ。

 地の文が調子コイてやがる。下手したら俺も小院瀬見みたいに消されかねない。


 肝心の俺自身がそんな様子だから、臼木さんにどんな言葉を掛けようかとも思いつかないし、もはや彼女にとってそれが単なる気休めにしかならないのではと考えてるうちに、彼の思考はおぼつかないものになった俺の思考がどんどんと薄らいでゆく


 健太は自らの無力さに激しく苛まれていたいや。なんか、俺の声がどんどん小さくなってるんだけど。


 頬を撫でる寒風が季節を無情にも知らせるおーい、地の文のオッサン! ちょっと黙っててくれっ!


 隣に佐智が居る時間が長くない事は明らかだもしもーし! 皆さん俺の声、聞こえてますかぁっ!



「臨兵闘者皆陣列在前ッ!」


 ふぅ。あぶねぇ。

 どうやら地の文のオッサンを祓うことに成功したようだ。

 中二病まっしぐらだった昔の俺が、九字を習得しててよかった。


 いや、良くねぇよ。

 明らかに隣の臼木さん引いてるし。


「あ……あのさ。臼木さんから悪い物を除けるおまじない……」

「榎戸くんはやっぱり、わたしには悪い物が憑いてるって思う?」

「い、いや! そ、そんなことないってばよ! じゃあ言い換えて良い事がいっぱい起きるといいなっていうおまじ……」

「いいよ。気にしないで。わたしと居るとみんな不幸になっちゃうもんね。榎戸くんにも悪いからもう帰るね。ごめんね」


 完膚なきまでに終わったな、俺。


 臼木さんは少しだけ早足で歩きだしたが、なにせ病弱だし男の俺よりも体力が無いもんだから、結局離されるということもない。


 数メートル離れた後方から俺は彼女の背中を見守るしかなかった。


 くそぉっ! 全ては地の文のナレーションのせいだ!

 おいこらっ、オッサン!

 俺と臼木さんの邪魔ばっかりするんじゃねぇ!

 陰からコソコソと気持ち悪いやつだな!



 おそらく健太も分かっている事だ。

 前よりも佐智の容態が悪化していると。

 もはや矮小な自分に出来る手立てはない。

 なかば諦めに似た感情が彼の心を支配する。



 ちくしょう、まさか地の文の中だけでなく縦読みでも俺を小馬鹿にしてくるとは。

 しかもパソコンだけでなくスマホの読者が読んでも文字の配列が崩れないように、一行の文字数を制限してきやがった。それでわざわざ頭文字で『お前もな』とは。

 こうなるともはや、ラブコメに愛された俺の力と臼木さんの難病との話じゃない。

 地の文のオッサンと俺との根比べだな。

 ラノベの万能な文章の方が純文学の地の文に勝ると証明してやる。



 そう願う健太の想いも虚しく、季節は冬へと向かっていた。

 街を照らすネオンの輝きも届かぬ路傍には樹々から落ちた葉が集まり、木枯らしに乗って巻かれるその惨めな姿は病に侵された佐智の未来と自分とを対比する陰と陽、静と動、果ては死と生を暗示しているかにすら思えた。



 ん~、ごめんなさい。やっぱ俺の負け。

 いきなり季節が秋の終わりになったもん。

 皆さん、この間の俺は元気だったですか? 妙なヘマはしていませんか?

 それすらも思いっきり割愛されたんでしょうか?

 そもそも俺は大学共通テストに申し込んだんだろうか。

 受験勉強はいったいどうなってしまったのやら。


 それに臼木さんはますます色白になってしまい、頬もこけて、目元には寝不足とも違うようなあまり良くないクマが見て取れた。

 くそぅ、俺のラブコメの力っていったいどこで発揮されたんだよ?

 小院瀬見も希久も言うほど役に立たなかったし。

 俺が何の罪を犯したって言うんだ。



「これ、良かったら榎戸くんにあげる。男の子にはあんまり楽しめるものじゃないと思うけど」

 ある日の昼休み。

 数日欠席して、久しぶりに登校した臼木さんは革のカバーをはずした、大切に読んでいただろう本を俺に差し出した。

 それはいつもの純文学じゃない。

 ラノベはラノベだが、俺の読む男子向けジャンルとも違う。

 いわゆる後宮への異世界転生モノだった。

「わたしもホントはこういうのが好きだったのに、なんか病気になってから全然違うものが好きになって。でも今はどっちも全然楽しめないんだ」

 いきなり向こうから声を掛けられて驚きもしたが、それ以上に驚いたのは臼木さんの行為そのものにだった。

 あんなに読書が好きだった臼木さんが本を処分するなんて。

 唖然とする俺は、手元の本とあの子の顔を交互に見た。

「だから今まで榎戸くんの趣味、いいねって言ってあげられなくてごめんね」

 

 臼木さんはそう言うと、そろりと自分の机に戻っていった。

 たいして読み古してもいない真新しい女性向けラノベを見ているうちに、俺の身体は震える。

 俺は彼女がこっちを見てないとわかると、両腕で顔を隠すように机に突っ伏した。

 せめて、昼休みの残りの時間を居眠りに費やすと周囲に思わせるために。

 涙と共に出る嗚咽を堪えるのに必死だった。

 俺は声も身震いも抑えて泣き続けた。

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