第18話
中央階段を迂回して目的の教室に辿り着くと、改めてこの学園が巨大なことを思い知らされる。そりゃあ、地下にあの廃校を埋めるくらいにはどでかくなきゃ駄目なんだろうが、いったい組織はどんだけ大きいんだと考えざるをえない。
教室の前に立ち、声を掛けてから扉を開く。満点星ゆりかは、窓側の教室隅、ロッカーの前で体育座りしてすすり泣いていた。
「ゆりかちゃん」
と声をかける。ビクッと体が震えるが、相変わらず腕の中に沈んでいる。
「…神子さん、みんなあんなに好きだったのに、みんな本当は嫌いなんだって…アイドルの親戚で、勉強も出来て可愛くて、それで、野球部の朝川君とも付き合ってて…人間って本当はこんなに醜いんだって思っちゃう…」
「行こう。サイレン、聞こえたよね」
「さっきの…ねぇもしかして私、あの子に呪われたんじゃないかな…!?だって良く聞こえるもの…みんな私の悪口言ってる。私、肆参に呪われたんだ!きっと…!」
「ゆりかちゃん!」
「ああ…ごめんね…?私が呪ったりするから…ごめん…ごめん…」
ブツブツと呟く彼女なりの事情があったのだろうが、それは、すごく今イライラする。私の声は彼女に届いていないみたいだった。彼女の肩を担いで、無理やり持ち上げる。
廊下をこちらへと近づいてくる足音が聞こえて、とっさに身を屈める。そこで、ゆりかちゃんの耳から血がもはや垂れていないことに気づく。内側を傷つけてなければいいが。
一応、ロッカーの中にゆりかちゃんを押し込め、自分も中へ入る。彼女と向かい合わせの形で身を重ねあい、扉を閉じる。
足音の中に声が混じる。誰かが会話をしながら歩いてくる。サイレンが鳴った後に二人で学校を歩くなんて、よっぽどの不良か、私みたいに忘れ物をしたのか。私の背ではロッカーは背を曲げないと入れなくて、ゆりかちゃんは私の胸で苦しそうにしている。
「(ごめんね…)」と身を捩らせながら、ロッカーの戸に開いた長方形の穴を覗き込む。あれだけ走って気持ち悪かったのに、私はマスクを外していない。息苦しくてしょうがないが、顔まで手を伸ばすことも出来そうになかった。
扉向こうの景色。廊下側の摺りガラスに、二人の影が濃く映っている。
「(誰…?)」
「…っちにきたはずなん…」
「…に行こうぜ。先生に見つかったら…」
「…めだよ…るが…」
「…男?女?」
ぽつりとゆりかちゃんが呟くのを、扉に添えた手で口を塞ごうとする。
「んー…!」
それで、つい、肘が扉に当たる。ベコっ、と内側から扉が開いていく。
「…!」
「誰?…うわ、めっちゃビビってるじゃん」
「ビビってねーし!見て来いよお前」
「しょーがないなぁ…」
慌てて逃げていく扉を掴み、けれど閉めて音が出ることも考慮して、あくまで私たちの姿が見えない程度に被せるしか出来ない。小さい方の影が教室前方の扉へとまわり、ガラガラと開く。
「誰かいますかー?」
耳に掛かった髪を指でかき上げ、背を傾けるようにして教室を覗き込む。逆光でよく見えないが、とても、聞き覚えのある声。
「どーよ、誰かいるー?」
「いや…つるー?つるいないー?…帰っちゃったのかな」
というか、つい最近、聞いた声。
少女は摺りガラスへと近づき、ロックを外して窓を開ける。白い光が教室に流れ込んで、二人の顔が見える。
「…みや…?」
六畳みやと、朝川晃だった。
「もう忘れ物持って出てっちゃったんじゃねーの?あいつめっちゃ足速えーし」
六畳みやがこちらを見ている。教室を、頭の上に疑問符を浮かべながら見回している。が、一通り見て何もいないと思ったのだろうか。肩をすくめ、ガラス近くの机に腰掛ける。
ゆりかちゃんの容態もある。だがなぜか、二人が会話を交わしているのを見ると、 この扉を、開けて踏み込んでいけないような。
「…あんま、あの子の話しないで」
「…なんだよ?」
「神子結衣さんのことだって、私、聞いてなかったんだけど」
「誰だよそれ?知んねーよ」
「死んじゃったじゃん」
「あいつが勝手に飛んだんだよ!」
「ふざけんなって!!」
六畳みやは立ち上がり、自分の座っていた机を後ろ足に吹き飛ばす。
様子の見られないゆりかちゃんが分からずにぶるぶると震えるのを、天井に添えた手で頭を撫でる。
「ほんとありえない…!つるの事だって本当…キモイ…」
「あれは…!俺は断ったけど、あいつが無理やりしてきたんだって言ってんじゃんか。バスケやってっし、意外と力つえーんだよ」
ぞくり、と、体の奥で何かが燃える。
「…信じない」
「結衣だって同じだよ!お姉が消えたって泣いてっから、優しくしてたらヘラってよ!あいつ、信じらんねぇけど親に俺のこと話しやがってよ?キモっ、重すぎだろ…」
「最ッ低…」
彼からまき散らされる言葉の一つ一つが、濁って、汚れて、臭くて吐き気がする。あいつと、一緒の空気を吸っているだけで、あいつとみやが話してるだけで、胸糞悪い。
「なぁ許してくれよ?」
「…」
「今日の集まりだって、お前がしたいって言うから…」
みやは黙りこくって動かない。当たり前だ。どこまでも自分の責任を放棄して、誰かになすりつけて。そんな奴と話したくもない。
朝川晃はみやに縋るように、窓枠から体をのり出して手を伸ばしている。どうしたらこんな恥知らずで、みっともない姿が出来るんだろう。
「…聞こえます」
ふと、胸元でゆりかが呟く。
「また来る…!さっきと同じやつが…!」
『クチビルさん』がそこまで来ている。玖想図肆参は一匹取り逃がしたらしい、神子あいは大丈夫だろうか?
今、私が動かなければまた犠牲が増える。それにこれ以上、こんな茶番劇は見ていられない。
「みや――」
と、声を掛けかけて。
朝川晃の手が、みやの体を引き寄せる。彼女は、されるがままに近づいて、彼に身を寄せる。
あまりに一瞬の出来事で、そしてそれがまるで日常茶飯事であるかのように慣れた手つきで行われていたから、目を、奪われる。
二人は身を寄せ合う。窓枠越しに。
顔を上げて、目を見つめ合って。
目を見つめ合って何かを交わす。
言葉ではない、何かを。普通の人には聞こえないささやかな波長で。
そして見つめ合ってそれから。
それから、マスク越しにキスをする。
キスを、した。
している。
本当に一瞬の出来事。
「…ん…」
六畳みやの口から吐息が漏れる。朝川晃が強く引き寄せて、体を自分と密着させ
る。押しつぶされて、また、息が溢れる。
「…ぷはっ」
「お前、ほんと口くせーな」
「…うるさい!」
そう言ってまた、キスをする。
わたしにはそれが、何をしているのか、受け入れられなくて。
本当は、彼らがキスに熱中しているのに、そのすぐ傍に『クチビルさん』が見えているのに。廊下を、近づいてくるのに。
何も言えない。何も言葉にできない。どんどんと、『クチビルさん』はひたひたと、耳を済まさなければ聞こえないぐらいの足音で近づいてくる。私は思わずロッカーから一歩踏み出してしまっている。目の前の行為に、見とれてしまっている。
「…み」
彼女の名を呟く瞬間、ガラスの破片が、目の前を通り抜ける。
「見つけた!!」
振り返る。玖想図肆参が窓から教室に飛び込んでくる。彼女の片方の目と視線が合う。けれどもう片方の目は、二人を捉えていた。
カーテンを引き裂き、二人目掛けて投げる。空中で広がった布は彼らを包むようにして、彼女は机を持ち上げると足を引きちぎり、やり投げの要領でカーテンの四隅に杭を打ち込む。
「やっ…!」
みやの叫び声がする。玖相図肆参は飛び込んできた反動をそのままに摺りガラスへと飛び込んで、『クチビルさん』の目の前へと飛び出す。
「なんだおま…!」
朝川晃が言葉を言い切るよりも早く彼を教室の中に放り込む。カーテンの中で、二人絡まってモゴモゴとうごめいている。
「ふんっ…っ!!」
続いて玖想図は『クチビルさん』に抱きつくと、力の限りでその巨体を持ち上げる。軽々と化物が宙に浮き、玖想図の足がもつれる。クチビルさんは短い手足をバタバタさせ、玖想図の頭を何度も何度もその大きな口で齧ろうとするが、彼女は
「あーっ!!くせえなちくしょー!!!」
と言うだけで無傷らしかった。齧られたまま、その巨体を運んでいる。
ゆりかちゃんの手を引き、ロッカーを出る。カーテンの中の二人の事は、考えないようにする。玖想図の進んだ方向とは逆に進み、階段を下りていく。
正門玄関にゆりかちゃんを置いて、彼女が一人で玄関前の生徒たちに加わるのを見届けたのち、中央階段へ真っ先に走る。
布団の敷かれた場所に神子あいの姿は無かった。彼女の名前を叫んで辺りを見回すが、返事が帰ってくることは無かった。防火扉を開いたのは人生で初めてだった。それも、嵐が通り過ぎた後に。
中には誰もいなかった。
玖想図は二階まで下り、空き教室の中で『クチビルさん』相手の対処を続けていた。さっきと同じ要領で机の足を引きちぎり、カーテンを極限まで引きちぎって縄のようにすると、怪物の体を床に貼り付けるようにして動きを封じる。
彼女の手にはさっき中央階段で使っていたスレッジ・ハンマーがあった。『クチビルさん』の手足が四つともおかしな方向に潰れて、ひしゃげているのは彼女の所為だと思った。半透明の白い液体が折れ曲がった関節から垂れているのが、気持ち悪くて吐きそうになる。
「あいちゃんは無事なの」
「知らねぇよ」
「…これ、元に戻っても大丈夫なの…」
「知らねぇよ」
「知らないって何!?あんたの責任じゃない!」
「知らねえっつってんだよ!」
玖想図がハンマーを振り払い、先端にこびりついていた粘膜が教室の後ろまで飛び散る。思わず声が出てしまう。
「…それ、こっちに向けないでよ…怖い…」
「…」
仕事を終えてイライラしているのか、彼女のことがすこし怖かった。
縛られていた『クチビルさん』が苦しそうにうめき声をあげ、口の中からゴポゴポと音がする。
「離れてろ」
大きく割れた口の中から白い粘液質の液体が溢れだしたかと思うとそこにすこしずつ赤が混じっていく。『クチビルさん』はえづいているようで、体が痙攣するごとに、薄く赤の混じった液体が漏れだしてくる。最後にゲポォと大きな唸り声を上げると、彼の口から何か固形物が飛び出してくる。手のひらよりも、少しばかり大きいサイズの。
「見ない方がいい」
と、背後から声が聞こえる。博士がこちらへと歩いてきて、私の前に立ちふさがる。
「もう一体は?」
「…いきなり、消えた。多分こいつも…」
と玖想図が言うや否や、『クチビルさん』の体が徐々に半透明に薄くなっていく。
「ずるいなぁ。都合悪いと無限リスポンってわけ?」
完全に体が見えなくなると、張っていたカーテンが床に落ちる。暗い教室に、鈍い音が広がって散っていく。
博士は『クチビルさん』がいた場所にあるいていくと、さっき落ちたものを拾い、服の中に押し込める。彼の白衣が、不格好に盛り上がるのが彼は気に入らないようで。
だけど、見てしまった。赤のストライプが入った、内履き。1年生の使っている。
「一人犠牲になっちゃった。最近の事件も含めて、ちょっと対応が面倒だな」
「…ふざけないでよ」
『?』と博士がこちらに顔を向ける。
「ふざけないでよ!あいちゃんも神子結衣も殺して…!」
「…見えちゃったか。神子結衣を殺したのは僕らじゃないよ。それに、神子あいの安否だってまだ…」
のらりくらりと、いつものように、あくまで飄飄と。
「適当言うなっ!!!」
そんな、酷い話があるか。
「消えたって何だよ?あいちゃんが必死で逃がしてくれたんだぞ?ちゃんと仕留めろよ!何余裕しゃくしゃくって顔してんの?ゆりかちゃんもみやもおかしくなっちゃうし、呪いっていうなら、あんたらが呪ってんじゃないの?研究したいだけなんでしょ?私たちに呪いを掛けて、それ見て笑ってるんでしょ!」
分かっている。自分で自分の筋が通っていないくらい。
ただ何か言葉を叫んでいなければ、自分が崩れそうで、怖くてたまらない。全部自分が悪いと分かっていて、そんなこと真正面から受け入れる勇気なんてない。だって私だって、私だって大変なのに…!
けれど博士は何も言わず、ただじっとこちらを眺めている。
「…じゃあもう、待たなくていいんだね?君らの青春ごっこ」
「…」
「次の『クチビルさん』、殺しちゃうから」
そう言って、彼は歩いていく。玖想図は、何か言いたげなまま、そこに突っ立っている。
「行かないの」
「…そんなに落ち込むな」
「…それらしい事は言えるんだ」
「機械なのに?」
「…30年で感情無くなっちゃったんでしょ、大げさなことばかり言って…真似しないでよっ…!」
「かもね」
彼女はポケットから何か取り出すと、私の横に置く。
いつか無くした、みやから借りたリップクリームだった。
「…トイレで拾った。返す」
そう言って、出ていく。
一人になった教室で、リップクリームを手に取って笑う。
「こんなんで、助かってたんだ私…」
思い出す。空き教室の、あの二人のキスを。
「・・・・!!!!」
リップを壁に投げつける。声にならない言葉で叫ぶ。
私が助けなきゃと思っていた親友は、とっくに、勝手に、助かっていた。
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