第17話

 朝起きたら博士はいなかった、という事はなく玄関の門の前で普通に待っていた。パジャマで外へ出ると肌寒く、思わずクシャミがはしたない声と一緒に出てきてしまう。起きるのが遅いと愚痴を言われたが、土曜で学校が無いのに慣れてしまっていた。


「学習会には出ないの?」


 進学校を名乗る以上、有名大学校の進学率を1%でも伸ばすべく学園では休日返上で学習会が行われていた。教科は国数社理英、全部。三年の担任は残業代が出るとはいえ、プライベートが潰れる恨みを生徒への学習に注ぎ込み、スパルタな教育方針は保護者にだけ人気がある。1、2年も参加は自由だが、部活に打ち込んでいた私にはまったく関係のない話だと思っていた。


「呪いの解決も重要だけど、留年なんかしてみろ。僕らが面倒見が増えるだけなんだからな」


 昨晩、博士の話の途中で寝てしまった所為だろうか。目の下のクマに、機嫌の悪さを読み取ってしまう。

 行きますよ、と諦めて口にすると博士の背後の家から誰かが出てくる。


「…おーさみ…あれ?つるぎ」


 コートを着た朝川晃が、手を振って近づいてくる。

「お、レイプ魔じゃん」と、とんでもない事を呟く博士。


「わーっ!!わーわーっっ!!」


 この悪魔め…いま私が騒いだって、聞こえていたら逆効果だろうが!!


「え、なんか言った?」

「(ほっ)」

「別に…じゃお父さんとお母さんによろしく」


 と、博士は肩をすくめ、歩いていく。やめろ、お前はお婿さんか。

 博士はもう特段、私と朝川晃がどうするかは、考慮することもないらしい。


「あれ誰?」

「三年の…あ、いやあれはどうでもよくて…光平君」


 頑張って、言う。


「あの、冬休みのこと、なんだけど…今、いいかな」

「…あー、だよな。結局あの日、俺いつの間にか家帰って寝ちゃってたみたいでさ。ほんと、スマン!!」


 大げさなくらい、声を振り上げて晃君がお辞儀をする。


「あ、いやそんな…」


 と、こちらが謝ってしまうほどに。顔を上げて、私の服装を見回して


「今日、学習会来るのか?」

「あ…いや、決めてない…」

 

 そうだよな。パジャマだもんな。


「あのさ、もし来るならさ…」


 と、晃君が言いかける。言葉の途中で割り込むように、六畳みやが扉を開けてそこに立っている。


「あ、おはよ…」

「…」


 みやはその場に立ちすくんで、目を薄めて私たちを、というか光平君をじっと、見つめている。

 光平君はその視線から目を逸らすようにして、


「…じゃ、学習会の後で俺の教室集合な。よろしく」

と言い残して、その場を足早に去っていく。どんどん小さくなっていく背中を見つめ

る、みやの視線は冷たい。

「おはよう」

「…おはよう。みやも学校?」

「部活。後輩の練習見ることになってるの」


 私の代わり、と、彼女は言う。努めて無感情に。


「何話してたの?」

「前の、集まるって話の続き。学習会の後ーー」

「私も行こうかな」


 どこまでも、冷たく。

 みやと別れてから着替えをし、両親にどこへ行くのかと訪ねられて「学校」と答える。


 布団に包まれた神子あいは熟睡していた。枕元に朝食代わりのパンを供えて、起こさないようその場を立ち去る。もう地蔵さんみたいな扱いだな。まぁ、神ってついてるし。

 今日は休日扱いで学校の照明も落とされている。廊下を歩いていて、ふと立ち止まると誰の声もしない。時々、吹奏楽や運動部の掛け声が遠くにうっすらと聞こえるだけ。ヒーターの機関が呻き声を上げ、ただただ、窓の外では雪が降り積もっていく。

教室では教壇に立った教師の熱の入った授業に、生徒たちがシャーペンを走らせる音で応えている。時々授業中の生徒や教師と目が合うが、すぐに目を逸らして自分の本業に意識を集中させる。誰も、私のことなど気にしている余裕は無いみたいだった。光平君の姿は見当たらなかったが、たしか学習会は教科ごとにクラスを再編成しているので、いつもの場所に見当たらないのも普通のこと。

 ここのところ色んなことがありすぎて考えもしなかったが、そういえば将来、私はどうするんだろうか。最近考えた未来のことと言っても、人工のクチビルを作るか、その金をどうやって稼ぐかとかそういうことだけだった。それ以上のビジョンが浮かんでこない。

 この呪いが解けたら私は部活に戻るべきだろうか?それとも正式に部活を辞めて、勉学に打ち込むべきだろうか?

 こんなことを考えていられるのも、今日全てが終わると確信していたからだった。学習会が終われば朝川晃だけでなく六畳みやともまとまった時間を作って話せる。それで、終わりだ。もし本当にキスをしなければならなくなっても、もう、朝のような顔をみやにさせることが無くなるのならばそれでいい。心臓の音が聞こえるくらいドキドキしているが、それ以上に、冬休みから続いた悪夢のような日々が終わるのだと、冷静に悟っている自分もいた。

 玖相図肆参。学習会に来ているはずもないが、彼女はいま、どこで何をしているのだろう?

 解決を急いでくれると博士は語ってくれた。それは単純に嬉しかった。きっと彼女も、呪いを受ける苦しみを知っているのだろう。言葉にも顔にも出さないが。


「……!…」


 何か聞こえた気がして、足を止める。

 小さくか弱い呻き声が、どこからか流れてくる。気が付くと、校舎の端にある空き教室の前に来ていた。少子化の煽りを食らって、こういう教室は学校中にある。どうやら声は中からするらしい。教室は暗く、摺りガラスの向こうではカーテンが閉め切られているらしかった。


「…誰?大丈夫?」


 しん、と無言が帰ってくる。


「…!!」


 塞がれた口で叫んでいるような、しわがれた唸り声。教室のドアに手を掛けると、ガタガタガタ、中で机の揺れる音がする。


「いやーっ、いやっ!!」


 聞きなじみのある声。ドアを開く。

 廊下から差した明かりで、教室中央、机と椅子の空間がそこだけぽっかり開いている所に、黒いソックスと青のストライプの内履きが見える。手探りで電気のスイッチを探って点灯すると、床には、眼鏡を掛けた少女が耳を抑えてうずくまっている。


「ゆりかちゃん…?」


 満点星ゆりかが、倒れて頭を抱えていた。


「だれっ、いやーっ!!うるさい!うるさい!!」

「ゆりかちゃん、落ち着いてっ」


 顔から眼鏡を剥がし取り、私に向かって投げつけてくる。

 眼鏡は体の斜め左に逸れ、開いた扉から廊下の壁に激突する。ひしゃげた額縁のレンズが、音を立てて破片になってまき散らされる。何かにひどく怯えているらしい彼女は、どう見ても正常な意識を保てていなかった。

 駆け寄り、彼女の肩を抱きしめる。ガタガタと震える彼女の肌はコンクリートの壁よりも冷たい。


「ふーっ、ふーっ、ふーっ」

「大丈夫、大丈夫だから」

「…つるちゃん…つるちゃん?」


 焦点が私の目の奥で結ばれる。


「どうしたの。具合悪い?」

「ごめん…なんか、この前からすっごい…聞こえるの」

息の荒い彼女のマスクから半透明の液体が染み出し、顎を伝って落ちてくる。制服の袖を伸ばして拭い、肩を担いでやる。

「保健室いこ、立てる?」

「耳痛い…」


 足取りはおぼつかないが、地面を押して立てるぐらいの体力はあるらしい。酸素が足りていないのだろうか、マスクを外してやる。口は半開きで、閉じる気力も無いようだった。

 ふと、ポタポタと肩に何かが垂れてくる感触に気づく。ゆりかちゃんの耳から、血が雫になって垂れてきている。

教室を出て廊下を進んでいく。二人の足音だけが、やけに反響して聞こえてくる。歩いている時も彼女は、


「結衣ちゃん…結衣ちゃん…」


 と、繰り返し繰り返し呟く。

 保健室はA棟の一階、正面玄関のすぐ側にある。中央階段を通ればすぐだった。途中で神子あいに遭うことも考慮したが、ゆりかちゃんは呪いに掛かっていない。私が一緒にいれば神隠しの心配もせずに済むだろう。確証は無いが、事態は急を要する。

 彼女を担ぎ直し、規制線を手で払おうとした時。


「待って」


 ゆりかちゃんが袖を引っ張る。


「なんか、聞こえる」


 不安そうな顔で、彼女が言う。


「聞こえるよ、なんか、いる」

「…?何も」

「下に、何か」


 ふるふると首を振る満点星ゆりかの耳からは、さっきよりも勢いを増して血が流れている。

 彼女をこれ以上歩かせるのは無理らしい。

 一番近い教室に彼女を連れ、入って扉のすぐ横の壁に背中を着けて座らせる。


「保健室行ってくる」


 必死に袖を引っ張る彼女をなだめ、教室を出る。

 中央階段を下っていくと彼女のいるはずの踊り場に出るのだが、捲られた布団の中には誰もいない。抜け殻を横目に通り過ぎようとして


「うおっ、と」


 階段の手すりに隠れるように体を屈める、神子あいがいる。


「あいちゃーー」

 

 私の存在に気づくと「しーっ!」と人差し指を立て、ぐいっと私の体を自分の後ろに隠すようにする。小声で耳打ちするように


「どしたの」

「いえ、ですね。何か、下にいるみたいなんです」

「いる、って」


 ゆりかちゃんがいっていた奴か。


「人?」

「どうも、私はこれより下には行けませんから分かりませんが」

嫌な予感がする、と、眉をひそめて彼女は言う。この真下の踊り場にとてつもなく暗い雰囲気の何かがいる。神子あいと満点星ゆりか。玖想図肆参にまつわる二人が感じる、違和感の存在。と考えて、ふと、異能という言葉に思い当たる。人よりはマシな程度でも、人を少しばかり超えた能力によって、お互い感じ取るものがあるのかもしれない。


と、


「…上がってきます」


 神子あいが呟く。耳を済ませると、冷たいものが階段を上がってくる音がかすかに近づいてくる。

 固唾を飲んで見守っていると、階段の裾からぬっと現れたのは人影で、その瞬間に緊張が解れる。


「…なんだ。よみさんか」


 胸をなでおろす。現れたのは玖相図肆参だった。彼女は相変わらず切れ味の鋭い目つきで辺りを見回している。

 立ち上がり、「よみさん」と手を振る。玖相図肆参はこちらに気づき、顔を上げると


「馬鹿!逃げろっ!!」


 と叫び、瞬間こちらに地面を蹴り、跳躍する。彼女の目は私よりも背後を捉えている。

 背中に重たいものを感じて、振り返る。するとしっとりとぬれた赤ピンクのひだが、私の顔の二倍も三倍もある大きさで現れてーー


「『クチビルさん』だ!!」


――大きな唇が目の前にあった。


「…っっ」「鶴首さんっ!!」

 神子あいがとっさにハグしてくれなかったら、私の上半身はまるまる、白いお餅みたいな化物に包まれていただろう。私が一瞬でも目を閉じるか閉じないかという間隙を縫って、玖相図肆参は私たちと化物の間に体を滑り込ませ、その巨体を押し返す。


「…くっそっ」


 トイレで見た最強の彼女は、博士の語っていた最弱の呪いに苦い顔をしている。彼女の背中が私の目の前まで押し込まれていた。明らかに苦戦している。


「殺しちゃいけないって…ムズイんだよ、こんな雑魚相手にっ…!!」


 袖の下から警棒のようなものを滑らせ、ボタンのような物を押す。手のひらサイズの鉄の棒は内側からマトリョシカのように先端へ先端へと伸び、みるみるうちに変形していく。怪物と自らの間に変形しきった武器を潜り込ませ、その巨体を、


「ふ、んっ…っ!」


 と、押し返す。

 踊り場の隅に巨体を追いやった彼女が、後ろ目に合図を送ってくる。私は震える足を引っぱたいて、神子あいの体を引き寄せる。


「走るよ!」


 少し考えれば済むことだった。神子あいの階段には、上も下も存在しない。彼女はずっと呪いの影響を受けていたのだから、階段を上ってくるものが階段を下りてくるということを勘違いするということだってあり得る。四次元空間の騙し絵のように、彼女を閉じ込める階段は呪いによって捻じ曲がっている。私たちに今せいぜい出来るのは、半階分遠くへ逃げて、隅でじっとしていることだけ。

神子あいは玖想図肆参をずっと見ていた。困惑の表情で、


「あれが、玖想図肆参ですかっ」

「そう!あれが玖想図肆参!」


 悪いが郷愁に浸る暇はない。ひとつ上の踊り場に転がり込み、彼女を規制線傍の防火扉に押し込める。


「嫌ですよっ!」


 神子あいが唐突に叫ぶ。


「よみちゃんに助けられるなんて嫌ですっ。あんなのに助けられるぐらいなら、自分でーー」


 よみちゃん、か。彼女をちゃん付けで呼べるのは、君くらいのものだろうよ。

それで、どうする?自分で、どうすると言うのだ。神子結衣の事を思い出して、胸の中が苦いものでいっぱいになる。


「自分でーー」


 自分で、どうするつもりだ。自分でできることなんて。

 そう、叫ぼうとしたとき。神子あいの視線が、私の向こうへ注がれているのに気づく。

 体を捻り、階上を見上げる。窓の外の白い光で逆光になっているが、シルエットで分かる。人の背丈よりもはるかに大きく、白いお餅みたいで、ぷっくりと赤らんだ唇が印象的な。恐らく人よりも、それは、経験のある奴だったから。

 二体目の、『クチビルさん』。

 そうか。だって「唇を奪われた」人間が三人なら、玖想図肆参が倒した怪物を引いてもあと二体。今まで、一体ずつしか出ていなかったのが奇跡なのだ。それが同時に、一気に二体も出てくるのは。なんて不幸(ミラクル)。

 湿り気を帯びた生皮がフローリングの踊り場に触れては離れる度、水滴の落ちるような音を出す。ゆっくりと、ゆっくりと、私たちに逃げ場なんて無いのが分かっているみたいに、じわじわと距離を浸食してくる。


「逃げてください」


 小さい、優しい声が耳元でささやく。


「逃げてください、鶴首さん。私は、玖想図肆参のところに飛び込んだほうが早い」

また、そうやって笑う。優しすぎると怒るぞ。

「どっか逃げれる場所があるはずだよ、どっか……」


 奴はまだ階段の上の方だ。どこか…そうだ、規制線の外。

 神子あいの手を引いて、規制線の向こうへ飛び出す。が、テープの下をくぐると彼女と私の手の隙間には油が張ったみたいに滑って、私だけが外の廊下に転がり込んでしまう。


「くっそ、なんで…!」


 テープの下から彼女の手を引っ張り、外へ引き出そうとするがことごとく彼女の肌の上を私の指は滑ってしまい、外へ出してやることが叶わない。呪い、あの博士が苦戦するわけだ。だって30年も掛けて、何一つ解明できちゃいないじゃないか。目の前の天使一人守れないなんて。

 焦る私の心に油を注ぐように、突如として鳴り響くサイレン。学校のスピーカーから流されるそれは、自動生成された女の人の音声で「緊急避難訓練です。生徒と教師のみなさんは直ちに避難してください」と無機質に繰り返す。何度も、何度も彼女の手を引く。クチビルさんはもうすぐそこまで来ている。ここから見える廊下の端で、教室から出てくる生徒たちはぶらぶらと、「らっきー」だの何だのと喜んでいるが、畜生め冗談ではない。


「やめてください、逃げてください!」


 何か、何かないか。と辺りを見回して、さっき駆け込んだ場所。

 そうだ、防火扉。クチビルさんを引き付けるように逃げて、またここへ戻ってくれば…。


「あいちゃん、防火扉!下に行って、使い方わかる!?」


 神子あいはクチビルさんから距離を取るようにして、反対側の壁に背を付け、ずりずりと遠ざかっていく。ついに、クチビルさんは私たちの目の前の床を踏みしめる。


「わかりますからっ、逃げてくださいっ。私じゃなくて鶴首さんが危ないですっ」

「戻ってくるから!絶対!!」


 立ち上がり、彼女の姿を惜しむように体を残して、彼女が階段を飛び降りていくのを最後に自分も走り始める。

 畜生、畜生、畜生!よみさんは何をやってる、最強の機械なんじゃないのか…!

 最終的にクチビルさんがどちらを選んだのか振り返る間もなく棟の端の階段に辿り着き、上へ上へと駆け上がる。


「おいお前!訓練だぞ!」


 と、すれ違った教師が言ってくるが、本当に、こいつらは口だけだな。

どうやら私が転がり出たのは2階で、さっき取り残してきた満点星ゆりかは4階だ。3階を過ぎたあたりで失速し始め、一段分、足を上げることさえ困難になってくる。

途中、上から避難してくる生徒の群れにのまれる。顔を上げる体力すらなく、ただ必死に手すりにすがって、一段一段を無理やり体の下に押し込めていく。

と、不意に


「きゃっ」


 誰かとぶつかる。相手にとっては軽い衝突だったろうが、私は思わず手すりから手が離れ、尻もちをついてしまう。


「…つる?」


 へとへとになった目を持ち上げると、ぶつかった相手は六畳みやだった。


「訓練だよ。忘れ物?」


みやはその綺麗な瞳で、私の目を覗き込んでくる。あれ、つけまつげしてるな。色を覚えたな?この。


「…大丈夫…」


 彼女が私に手を差し出す。思わず笑みがこぼれて、その手を掴んで。

 また、壁に寄りかかって立ち上がる。

 彼女を見るたび、元気が出る。彼女といるとどうしても、頑張れてしまう。リコーダーも、部活も、こんな不条理な呪いでも。どうしても、どうやったって、彼女は親友なんだなと、心の底から熱いものが噴き出してくる。


「大丈夫か?」


 彼女の後ろから、件の朝川晃も顔を出す。手を伸ばしてくるが、

「大丈夫」

 

 と言って手で制する。二人がぽかんとこちらを見ているのが背中で感じられる。大丈夫、いざとなったら朝川光平くらい肉壁にする。六畳みやは強いんだから。

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