第11話

 ハカセに連れられて、みやさんと私は誰もいない校舎を歩いていた。


「唇って、実際どこからどこまでって決まってる訳じゃないからね」

「え?だってこの、ぷっくりした部分なんじゃないですか」

「みんなの共通認識として、そうなってるだけなんだよ。遠足を考えてみな?あれが山に上って帰ってくる行為そのものだとしたら、先生が『遠足は家に帰るまでが遠足です』っていう意味、実際山ってどこから始まってどこで終わるのか考えたことある?それと同じなんじゃないかな」

「…とんちみたい、ですね」

「その論理で言えば、唇にキスしてって言われて足の先にキスしても、ある意味では

間違いじゃないと思うんだが」


 試してないよな、このマッドサイエンティスト?

 博士は自分でも実際に呪いを試したのだという。つまり、あの朝川光平とキスしたということ。彼の性的嗜好でもないのにそこまでするのはどう考えたって気が狂っているとしか思えないのだが、結果は不発。どうやら効果が発生するのは女だけらしかった。それはつまり、呪いを掛けた人が朝川晃とキスするのは女だけ、と考えているのと同義と博士は語る。


「それって重要な事ですか?」

「どんなに些細な事でも、自分の意見を持つべきだよ。実際この会話で、君が「朝川光平は別に男とキスしていたって普通だ」っていう一つの推測が立つ」

「…別に、男とか女って、もうそんな時代じゃないですから」


 ふーん?と見透かしたような顔で博士が覗いてくるが、無視。


「それだけですよ」


 まだそれほど暗くなっていない時間なのに、生徒どころか教師が一人もいないというのはどう考えてもおかしかったが、そこはハカセが、


「上に頼んで全員帰らせた」


 と口にするのも知らないところで何か大きな権力が跋扈しているようで、追及してよいものなのかどうなのか困る。


 確かに、2年までの頃は夕方にチャイムが鳴って、先生方が早く帰るよう催促してくることが何度もあった。学校の規則としても、チャイムが鳴ったら出来るだけ早く学校を出るようにというのは、入学した教室で早々に釘を刺されたことだった。


「普段ならそうやって誰もいない間に、作戦をやっちゃうんだ」


 あの日、トイレで初めて玖相図肆参と「クチビルさん」と遭遇した日も、チャイムが鳴っていたらしい。私はお弁当を食べてすぐに眠くなってしまったから、まったく気づかなかった。


「でも本当によかったの?あの場で確かめちゃわなくて。君もしかして、学園中の生徒とキスするつもりかい?」


 ハカセが言っているのは検証のこと。

 衝撃的な事実を受け入れるのにはさほど時間を取らなかった。頭では理解を拒んできたが、今まで不可思議な目に遭いすぎて体の方が先に実感してしまったらしい。


「…もし、助けが必要ならそうします」

「あ、そう。残念だな、君がキスって言われて、どうやってするのか楽しみだったのに」


 そういえばそうだな。もし本当にキスするつもりだったなら、私はどうするつもりだったんだろう。唇が無い今、どこをどうすればキス判定になるのかまでは考えが至っていなかった。


「もし六畳みやが呪いを掛けた張本人なら、唇が無い奴同士のキスなんて今の研究以上に興味があるんだけど。足先と足先とか?へそとへそ?」


 玖想図肆参が悪態から生まれたなら、供花一基は悪趣味の子なのだろうか?

 あの時、ストレッチャーに並べられた10人のうち、私は犯人をほぼ確信していた。というか、ほぼ朝川晃で決まりだった。

 彼の視点から考えるなら、勇気を出した告白を部活だからという理由で歯牙にもかけず無下に断った女、という認識になるんだろう、私は。

 あの場で、朝川晃に近づくこと。朝、朝川光平に近づかれたこと。

 気持ち悪かったがそれ以上に、罪悪感のまったくない純粋100%な青春顔の彼を見ているとこちらが間違っているんだろうかと思ってしまう。彼にとって私はほろ苦い青春の1ページで、私みたいに何か月も引きずっているのが間違っているように。実際彼はあの日以降も、学校に来てウワサなど知らん顔で練習をしていたんだろう。友達の輪の中では、被害者面して同情を買っていたりするんだろうか。

 ふと思い出しては、こうして悪態をついていないと忘れてしまいそうになる。そういう意味では、悪口はいいな。

 正門で靴を履いていると、博士は内履きのまま外へ出ていく。彼の靴箱は無いらしかった。背後では玖想図肆参が中央階段を覗いている。

 確かに、供花一基のような、彼みたいな実験服を来たショタみたいのが放課後の校舎を後ろ手に組んでうろついていたなら、たちまちウワサにもなるんだろう。ニヤニヤと、その上っ面の下にはどんなに暗く歪んだ欲求が隠れているとしても。

 実際、供花一基の飄飄とした態度で救われている部分もあった。どう聞いたってセクハラまがいのドS嗜虐趣味にしか感じられない部分も多かったが、つまり、彼の論理を今回の件にあてはめるならば、体のどこでキスをしてもいいんだろう?

 足先と足先とか、手と手とか。

 全部忘れて手と手をつないで握手をすれば、きっと次の瞬間にはみやと私の唇が戻っているかもしれない。楽観的すぎるだろうか?

 たとえ最悪の場合、私が、朝川晃に文字通り「口づけ」をするのであれば、それでもいい。というかそれが当初の予定通りではないか。それで、もしみやに勘違いされて嫌われるとしても、彼女が人生に元通り戻るのならばそれでいい。きっと心の傷は時間が癒してくれる。

 ただ、私の夢は消えてしまうが。それだけなら、それでもいい。

 鳥居の下に来て、振り返る。私の真後ろについてきている博士は別として、玖相図肆参は、鳥居の下にぽつんと突っ立っている。


「?」

「?ああ、あいつは、ここを出られないから」


 そういう、呪いだから。

 淡々と語る博士とは裏腹に、玖相図肆参の表情は全てを押し殺したように、何の色も無かった。


「…呪い、ですか。誰の…」

「少なくとも4人は把握している。あ、でもいやさっき、もう5人になったのかな。まぁもう、最初の三人はこの学校を出て行ってしまったから。彼女が情報をくれないことには、どうもね」

「出ていったって」

「あとの二人は、君も知っていると思うけど。みんなね、彼女の怪物退治を手伝ってくれた子なんだ」


 出ていったって、1年前?2年前?最初の三人が同級生でなければ、彼女はどれぐらいの時間を?二人、私は知っている?玖相図肆参を呪っている人間、それで、満点星ゆりかのあの、敵意むき出しの目を思い出す。彼女と玖相図肆参は、私の思うよりもずっと深く、そして黒い関係、なのだろうか。


「まぁ、そこらへんはいずれお邪魔したときに」


 私もぐるぐると考えて、止める。

 呪いというものの不条理さを、自分以外まで抱える余裕は今の私には無かった。自分のこと、そこで、ふと。


「ーーそういえば、『クチビルさん』」

「うん?」

「『クチビルさん』を倒しちゃっても元に戻るんじゃないですか?だって『クチビルさん』って私とみやの唇が呪いに掛かった姿なんでしょ?トイレの時によみさんが倒したのなら、私か、みやに戻ってなきゃおかしいですよ」

「…それなんだけどさ」


 そういうと、途端に博士は気まずそうな顔をする。また、あの子供みたいな顔をする。


「もし、指をさ」

「指?」

「ヤクザとかギャングとかーーまぁそこら辺の仮定は勝手にしてもらって構わないんだけど、そういう奴らに指を詰められてさ。切られたそのままなら後でくっつくじゃない?」


 なんで、指の話が出てくる?


「でも、見せしめだとか何とか言ってその指を潰しちゃったら、当然、元には戻んないよね」

「それはーーはい。そうですね」

「そういうこと」

「?ーーなら、『クチビルさん』を殺しちゃったら、唇は」


ズキン、と心臓が痛む。


「唇は、戻ってこないってこと、ですか」

「そう、なるね」


ズキン、ズキン。恐ろしいことを、聞きたくないことを、でも、聞かなければ。


「…あの日、倒した『クチビルさん』は、誰のものなんですか」

「いや、もしあの日君がこいつと遭遇してなかったら、僕たちは君と接触なんかしないよね?きっと君が困っている間に、秘密裏に事をすすめていた筈だ。君に協力を仰いだのは、君が一番、呪いの元を知っている可能性が高かったからなんだよ」

「答えに、なってないです」


心臓が痛い。


「…君が思っているような最悪の状況ではないんだ。もちろんこいつはあの日、間違えて誰かのクチビルが変身した『クチビルさん』を誤って、半ば、無意識的に粉砕してしまった。彼女が機械になって、確かに僕が性能を上げすぎたせいもあるけどさ。ちなみに、彼女の得意技は2段ジャンプとスレッジ・ハンマーね」

「…」

「…失ってしまったものはもう戻らないからね。でも、これであの『クチビルさん』が誰のものだったか、っていうことは一生分からなくなった。君と六畳みやを含めてあと一人、その三分の一が、貧乏くじだ」

「…あと一人?」

「朝川晃とキスしたのはね、鶴首つるぎ。君と六畳みやとあと一人、神子結衣という人がいる」


 神子、と聞いて。きっと今も学校の中にいる、あのひたぶるに可愛い少女のことを思い出す。


「神子あいの従姉だね。まぁ、さっき連絡が来たけど、これで彼女が呪いを掛けた張本人であるという線は消えた」

「消えたって」


 博士は淡々と続ける。雪が背筋に触れた気がした。


「君と六畳みやの両方外れ、ってんじゃないんだから、いいだろ?」

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