第8話
昨日の晩は、久しぶりに雪の無い道を見た。
自転車を全力で漕いで、町のどこからでも見えるあの丘の上へと急ぐ。肺の中が血の味ですぐいっぱいになるのを、赤い感情で染める。 あの時、玖想図と呼ばれるあの少女のもとへ向かっていたなら。
まだいてくれ、と、心の中がいっぱいになるほど叫ぶ。町の瀬戸際に鎮座して黙りこくっているあの巨大な丘の塊に向かって、猛スピードで、全体重を 乗せてペダルを踏みつける。
丘への上り坂は一本の道へと集約する。丘の腹をなぞるように走ってきた車体を傾け、侵入する。
立ち上がるとよくわかる、この急な勾配が壁のように自分に向けてせり上がっては一生続く。自分の心臓が張り裂けそうなほど叫んで、足の末端には 酸素が行き届いていない。ゴロゴロと血の塊が肺と血管の中で暴れまわっている。
「……あああああああああああああああっっっ!!!」
叫ぶ。柄にもないことを、絶対に無駄な言葉にもならない声を、振り上げてしまう。後悔してしまう。
六畳みやの涙をはじめて見た。
志が高く、自分の心を決して曲げない、後悔と悔悛という言葉からはまったくほど遠い彼女の眼から、それは溢れだして止まらなかった。 彼女は何も語らなかったが、原因が同じであるならば、それはきっとーー朝川晃だろう。
私の唇を奪い、私の時間を奪い、私の可能性を奪った。
それだけでなく、きっと、六畳みやも同様に。
野球遠征なら、出先で彼だけ死ねばいい。死球が頭にぶつかって、ベースで転んで、スパイクが体に刺さって出血多量で死ねばいい。 けれどもっと死ねばいいのは自分だ。
彼がいない時でしか学校にいけない。いないならいないという事実だけで安心してしまう。それで、唇をなくしてしまって、そのままでいいだなんて考え に至る。忘れようとしてしまった。あの時の恐怖や憎しみや怒りや気持ち悪さを、すべて過去のものにしようとしていた。 自転車が前に進まなくなり、歩道のガードレールに投げ捨てて、走る。もう足は動かなかった。それでも両腕を動かした反動で、なんとか下半身を引き ずっているに過ぎなかった。
「…はぁっ、はあっ、はあっ、はぁっ、うっ……おえぇっ…」
赤く沈黙した鳥居の前にたどり着く。学校の規則では、正門に至るまでの鳥居の中心から真っすぐの方向は、神の通り道ということになっており、努力 義務ではあるけれど、人間はそこを通ってはいけない。正門の中心と鳥居の中心はわざわざずらして作られている。その神様の道に、とうとう我慢で きなくなって、吐き出してしまう。
月が出ていた。昼間の曇り空をすっかり忘れたかのように、能天気に輝いている。
――呪いの解き方を教えてほしい、と叫ぶ。
柵の掛かった門に縋り、校舎に向かって叫ぶ。
自分の唇はいいから、六畳みやの、彼女の未来だけは、と叫ぶ。
思いつく限りのお願いの言葉を叫んだ。敬い、遜り、謹んでお願い申し上げた。丘の斜面を覆う木の葉が擦れる音が、私の声をかき消すようにざわざ わとせせら笑う。
噛みしめる唇がないことが、こんなに悔しいなんて。
いつかはこの傷も新しい皮膚に覆われて、その傷があったことすら忘れてしまうんだろうか。歯を磨いてしまえば、この気持ち悪さも変わってしまうん だろうな。
次の朝。
また雪が降っていた。昨日の夜のことは夢だったんだろうかと思う。
六畳みやと私はマスクをして家を出た。彼女はもう泣いてなんかいない、いつも通りの溌溂な笑顔を見せていた。 昨日見た彼女の顔が、本物の顔なら、自分だけがそれを見られるのはそれはそれでいいな、と思う。
みやに光平君の話はしなかった。これ以上彼女を苦しませることはない。
学校へ至る上り坂には、バスの列と見物客の町の住人や生徒が押しかけていた。どうやら野球部が遠征を終えて帰ってきたらしく、丸刈りのユニ フォームが列を成して上り坂をそぞろ歩いていく。その中には勿論、朝川晃の姿もあった。4番だった。
多くの女子に取り囲まれて、彼は笑っていた。
「人気だね」
私の眼を見ながら、みやはそう言った。感情を押し殺した声だった。
晃君はこちらの姿を見つけると、人の輪をかいくぐって歩いてくる。
「みや!鶴首!」
冬以来だね。と私は皮肉たっぷりに笑って見せて、六畳みやの手を引く。
「あ、ちょっと待って。何、めっちゃ無視するじゃん」
何か仕事をやりきった、清々しい顔で笑って彼は言う。
「つるぎ、放課後時間あるかな。色々話したくてさ。六畳も」
よろしく!と言ってまた、彼は人気者の列に加わっていった。彼が言うには、きっと色々のうちの一つが、私のことなんだろう。 昨日の悔しさの塊は、薄い雪の下に隠れて見えなかった。というか、彼の顔を見た瞬間に、もはやそれほどでもなくなってしまった、自分がいると思っ た。
そんなもので、そんなものでいいはずが、ない。消えかけた心を、もう一度燃やしなおす。
正門をくぐり、中履きを履いている時にふと、「くそうず」の名前を探そうと思い立つ。みやと別れる時、
「ちゃんと、来てね」
と念押しされた。大丈夫、みやを一人で会わせたりなんかしない。
「くそうず」という名前は案外早く見つかった。「玖想図肆参」。3年1組の生徒で、一応は女子の靴箱を使用している。開いてみると中履きが無く、もう 来ているらしかった。確かに女の子にはふさわしくない、仰々しい名前。下の名前などどう読むのか分からなかった。 中央階段には相変わらず規制線が張られている。
確かに呪いはあるのだろう。六畳みやの件で、それを実感した。
すると上から玖想図が中央階段を降りてくる。
私を一瞥して立ち止まるが、何を言うでもなく、けれど目は口よりも雄弁に軽蔑と無関心を示していた。
すれ違いざまに、私は彼女に何も声を掛けることが出来なかった。何より規制線の向こうに進む勇気は、もう自分には無かった。
久しぶりに出た授業は、日本史の授業だった。特に内容も分からず、どうしてその語句と語句に関係性があるのか、とかそういうことはまったく頭に入ってこなかった。教師もやる気がない生徒など お構いなしに、ただカリキュラムを消化するためだけの授業を進めていく。
窓の代り映えしない景色を眺めるのにも飽きて教科書をぺらぺらとめくっていると、「九相図」という語句に目が留まる。 漢字は少しだけ、違う。
どうしてこんなものを残さなければいけないんだろうと思うぐらい、ナンセンスな絵。人が死んで、崩れて、骨になっていく。 みやの言っていたのはこの絵の事なのだろう。たしかに、あんな白光の美少女には一生あてがうことのないであろう文字だった。 「きゃ…!」
にわかに湧き上がった悲鳴で、教室がざわめく。皆が外を見ているらしかった。
席を立ち、窓を開けて、感情の吐き出しどころが分からない取り留めもない奇声を発している。
「落ちた!?」
教師が慌てふためき、教室を走って出ていく。ああ、やっと世紀末な実感が沸いてくる。皆ほど外の死体に興味はないけれど、死体の気持ちには無責 任な共感は出来る。どうやら誰も彼も暗い気持ちでいるらしく、その吐き出し所が分からないのは同じだった。
「マスクしててわかんないよー」
休憩所へ行こうと、席を立った時だった。
「あれ、1年の子じゃない?」
「えぐいー、赤っ」
「だってほら、内履き赤だもん」
「違うよーそれ血でしょ?だってあたし1.5だもん。青だよ」
「3年の子?知らないなー」
――心臓が、急激に、動揺する。
違う、きっと、違う。けれど踵を返して確認する勇気はない。
「見にいこーっ」
教室の何人かが物見に出ていく。笑っている子もいて、私は死体さんの顔も知らないのに怒りたい気分になってしまう。まだ、決まったわけではないん だろうが。
その流れに押し出されて、教室を出る。
「こらーっ、出るな出るな!!」
廊下では生徒の処理に教師が手間取っていた。いち早く現場を見に行こうとするもの、そのグループについていくだけのもの、流れに乗って帰ろうと するもの、教室に残って勉強を続けるもの、それぞれだった。
喧噪の中で、私は六畳みやのクラスを覗き込むが、彼女はそこにいなかった。
残った頭の良さそうな女子に話しかける。
「みや?知らない、だって後ろの席だし…」
「あれ?つるぎ」
名前を呼ばれて振り返る。朝川晃が数人の友人らしき人物といっしょに立っていた。
「クラスここだっけ?」
「みやのこと知らない?」
「六畳?六畳ならさっき、クラスの女の子と一緒に出てったけど」
…そうか。
彼女では、ないのか。
「おいひかるー、行こうぜー。片づけられちゃうよー」
「待てって。…なんか、屋上から飛び降りらしくて。困ったなー、放課後屋上使えないじゃんなー」
「…別に、どこでもいいけど」
「その、さ。冬は悪かったな。俺も色々、焦っちゃって。…じゃ、教室迎えに行くから!また後で!」
きまり悪い雰囲気を断ち切るかのように、朝川晃は友人と走っていった。
落ちた女の子は六畳じゃなかった。もう、それでいいじゃないか。
晃君に対する感情は、もはや無関心に近いものになっていた。触れなければ、考えなければそれで済むこと。 「あ」
下に落とした視界の端に、青いストライプの入った内履きが止まる。玖想図だった。
「六畳みやじゃなくて、良かったね」
「…そんなわけ、ないよ。みやは強いんだから」
「もういいの?呪いは。あんなに昨日騒いでたのに」
「は」
見てたのか。どこから?
「でも確かに、唇がないくらいどうってことないのかもね」
「でも、あれがみやだったら、私…」
「自分だけ助からなくてもいいとか、噓でしょ?だって六畳みやを助ければ、その方法で自分も助けられるかもしれないんだから」 「…あれは、だってそう思ったから…」
「そんな器用な方法、知らないよ」
玖想図の言葉は、いちいち癪に障る。
けれど、屋上から飛び降りた少女が、六畳みやでなかった可能性はどれくらいあっただろう?
昨日、私が窓を開いて彼女と話さなければ、秘密を共有しなければ、どうして今も無事に学校に来れていると思えたのか。 唇が無い人。朝川光平のような物見が、死体に群がるように集まってくる。
それが、いつまで続く?一生隠して生きられる?お金を貯めて、いつか別の唇を用意するまで? それまで私たちは、お互いのことを守り切れるだろうか。
「…呪いを」
「…」
「呪いを解けるって玖想図、さんが言う根拠が欲しい。あなたが、他の皆とは違うって根拠を、見せてほしい」
玖想図は、また特に無関心そうな表情をして、そう、とだけ言った。
廊下は人がいなくなって、また静かな校舎に戻っている。
「じゃあ、見ててね」
「え?」
そういうと玖想図はおもむろに、制服のリボンを取る。ボタンを外し、上着を畳み始める。
「え、ちょ!!待ってこんなところで!破廉恥!」
指は進む。私の声などハナから発されてもいないかのように。
「…!」
いまあなたのしている行動の方が、ともすれば観衆の目を引きかねない突飛な行動であろうに。 布が擦れる音がして、もう、まともに見ていられない。
陶人形のような滑らかな肌に、窓の白い光が差す。妙な艶めかしさに、生唾を飲み込む。
「ちゃんと見ろよ」
「無理だって!お父さんとお母さんの裸しかみたことないのに!」
「人間に興奮するんなら、大丈夫だよ。ほら」
脱ぎ終わった彼女が、私のすねを足先で小突く。恐る恐る目を覆った手を外す。
「…え」
外では人が死んでいる、のだろう。それなのに、今、こんなことをしている。
目の前に立っている少女の体には、およそ生気と呼ばれるものが欠けていた。白く、血の気の失せた肌。 「触って」
返事を待たずに、玖想図は私の手を取って、肌を、腹を、胸を辿らせる。
「どう?」
どう、って。それは。
内臓の動く気配も、心臓の鼓動もしない。
「呪いでこうなった、らしい」
私は絶句して、彼女の気持ち悪さに、息を止める。
玖想図は、機械少女と呼ばれるべき体をしていた。
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