第7話
正門代わりの鳥居をくぐり、眼下に町を望む、つづら折りになった下り坂を六畳みやと二人で歩く。
冬休みの練習の時は毎日一緒に帰っていたから、二か月ぶりの一緒の帰り道、ということになる。
「マスク…」
「え?」
「つるも風邪なの?」
みやはいつからか私のことをつる、と呼んでいる。
「あ、うん…。みやも?」
「風邪、なのかな。正体不明」
訳も言わずに閉じこもってしばらくぶりに会ったら大泣きした女友達は、傍目から見たら地雷系なんだろうか。使い方が合っているのか知らないが、確 かに私が抱えているのは爆弾に違いなかった。
振り返ると夕陽を受けて時計塔が上り坂の向こうに沈んでいく。閉まりかけた学食では悪意から生まれたあの子が、私が来るのを今か今かと、机を小 突きながら待っているんだろうか。
「わっ」
雪の降り方は弱まっていた。ここは夕暮れになると海から吹き上げる風が強くて体が押されてしまう。 融けかけてシャーベット状になった雪の上で、足を滑らせて尻もちをつく。
「痛っ~……」
「どうした?」
そう聞いて、みやが私の体を引っ張り起こす。
「重ーっ…!太った?」
「…ひど…ね、三年で金髪の子って知ってる?」
「?あぁ、玖想図さんね。酷いよね、あんな可愛いのに名前が合ってない」
「くそうず?」
「そう、日本のあの絵の。昔はつるの方が頭良くなかった?ちゃんと勉強してる?」
「昔って、ひど。…あんま近づかないで」
「えっ」
「口臭いし」
そう言って、みやの顔に少しだけ狼狽えが見えたので、慌てて。
「みやじゃないよ!私」
「…分かんないよ、マスクしてるし。行こ」
暗く影に沈んだ校舎から目線をそらし、滑らないよう小走りでみやに追いつく。
湿ったスカートの冷たさにうっかり意識を滑らせないよう、帰り道はみやとの雑談に努めた。何を話したのかはこれっぽちも覚えていない。ただ、話して いる間のみやの重苦しい表情を見たくなくて、必死に話題を探していた。彼女も彼女で何か明るい話題を探していたのだと思う。家の門の前に着くこ ろには二人疲れ果てて、沈黙が暗く濃紺の空から地面に体を押し付けている気がした。ただ、彼女の目線は、時々私に何かを訴えるような、言葉の外に違う意味を含んでいる気がした。分からない。そういう会話をするのは一生、六畳みや以外の人間とだけだと思っていた。
晃君の家の前を通り過ぎる時、
「朝川、野球の遠征でいないんだって」
と、みやが思い出したようにぽつりと話す。
「へー」と言いながら、それを知って学校に来てるんだよ、と心の中で呟く。
「ろくに練習出来なかったもんね。冬」
誰かさんの所為で。
「そう、らしいね」
「みやも大会までもうすぐじゃん。風邪、大丈夫?」
「多分ね」
また六畳みやは曖昧な言葉を使う。
「じゃあ」
私が返事をする前に、彼女は家の中に入っていってしまった。 家の門を開く。 父と母が料理を作って待っていた。 二人とも今は元気溌溂人間なので、なぜ小学生の私のような人間が生まれたのか分からない。
私の分の料理はラップを掛けて盆に載せてあった。唇が無くなったことなど言い出せる筈もなく、あの日以来料理は自分の部屋で取ることにしてい た。最初こそ両親も心配していたが、私が特に彼らを嫌っていないのだと分かると、特に何も聞かず、そうしたい私の意を汲んでくれた。ただ無関心な だけなのかもしれないが、それが今はありがたかった。
「話したくなったら、話してちょうだい」
そんな二人とも昔は陰キャだったのだという。学校の陰キャが二人で、マイナスとマイナスを掛けたらプラスになってくれなかったのか。どうやらその問 題の解は、間違えて隣の家に代入してしまったらしい。陰キャは陰キャの気持ちが100パーセント分かる、というのはアニメの推し論争や好きなジャン ルの解釈を押し付ける不毛な争いを考慮に入れれば、そんなもの幻想だと言い切れる。
だが、一人で居たくないときに平気で一人でいられる人間を、陰キャとは言わない。一人の辛さは、陰キャが良く知っているのだ。 そういう気の置けない親だから、心苦しくもあった。
鶴首つるぎはあれ以来、さまざまな資料をあたって自分の異常を正常へと戻す方法を探した。けれどいつも行きつくのは「呪い」や「民間信仰」、「土 着」といった、今ではオカルトな話題ばかり。時々英語の論文や眼の滑るカタカナ語ばかり使われた研究記事に行き当たったが、そんなものも私、鶴 首つるぎという一般人にとっては、オカルトの範疇でしかなかった。
そもそも勉強なんてバスケを始めた小学校高学年以来していない。昔の通信簿などみると最高評価かその一歩手前が数多く見られる。今の自分の 惨状は、アリスみたいに鏡の世界に入り込んでしまったのだろうかと考えざるを得ない。
戸を閉め鍵を掛け、机に座ってマスクを取る。こうして初めて心から呼吸が出来る。
唇が無くなって困ることのひとつに、食事の弊害があった。
ごはんや野菜などの固形物がよく口から零れた。汁物など、上を向いていなければ机の上が簡単にビショビショに塗れてしまう。口の端から噛んでい るものや液体が伝って肌や服を濡らすのは、感触も後始末もストレスでしかなかった。
口が臭い、など今日彼女に言われなければ気づきもしなかった。知らなければ、みんな大人だから言わずに私は一生を終えられたのかもしれない。 口が臭いまま、ね。だって脇とか体臭が凄い人を町で見かけても、「あんた臭いですよ」と声を挙げて言えるだろうか?子供の頃の私だったら、どうだ ろうか?彼女を見ていると、子供を、かつての六畳みやを思い出す。悪態だけなら、私に似ているのかも。
今日の私は過去10年間で一番性格が悪かった。もしかしたら唇は、色々なものをせき止めているのかもしれない。 言葉とか、気持ちとか、食べ物とか。通りで荒れやすい訳だ、と、最後の一口を天井を見上げて咀嚼しながら考える。 人工口唇という手段もあった。高校を卒業して働けば、そう実現不可能でもないことなのかもしれない。それなら早くても19、もしくは親に怪しまれない ように大学を卒業してからなら23、24?短大を出ればもっと早いだろうか。大学は求めなければ出会いも付き合いもそれほど多くないと語る両親の言 葉には信憑性があった。二人ともバイト暮らしをしている時に出会ったのだから、そういう人生も悪くないかも。
バスケを続けられないと分かったときは覆面でも何でもしてやると意気込んでいたが、意外とすんなり諦められた。 その意味では、今日怒りを吐き出せてよかった。
彼女に感謝かな。あの物言いは、今でも癪に障るが。
なんだかこうやって家ではのんびり考えられるところが、私がどうしても「呪い」とか「ウワサ」とかそういう言葉にいまいちピンと来ない理由だった。あ の日のトイレのあれだって、今は夢だったのか現実だったのか、確かめようもない。記憶は毎日更新されて、薄れていくばかり。 息を吸って飲み込んで、ふと、カーテンの方を見やる。
小学校のあの日と同じ色をしていた。もしかしたらいるかもしれないと、マスクをつけてカーテンをめくる。
「つる」
彼女も、また同じように楽器を持ってそこにいた。リコーダーではなく、クラリネットだが。
「なんか、いる気がしてさ」
「奇遇だね。私もなんとなく、来る気がしてた」
えへへーと笑いあう。この光景で変なことは、
「みやは用意周到だなぁ。風邪移さないようにしてくれたんだ」
六畳みやが、マスクをしていることだった。
「んー。そうだねぇ…」
また、曖昧な返事をした。六畳みやという人間にはまったくもって合わない態度。
「…ねぇ、つるぎはさぁ、呪いとかオカルトって信じる?」
ドキッ、として、でもこれは一般人の会話なんだ、と思い直す。
「信じないよー。だって来年私ら大学生だよ?」
「大学生かぁ。そうだよね、今年で部活も終わり、だもんね。つるは一足先に引退?」
「…うん。いや2か月も学校さぼったし?勉強しなきゃまずいなって」
「じゃあ私も引退だなぁ」
え、と驚く。だって、
「大会は?」
「うーん…出れなくなっちゃった」
「だって、みやクラリネットで芸大行くんだって」
「…それももう無理みたいだなぁ」
そう言って、力なく笑う六畳みやの眼はまったく、楽しそうではない。なんだかすべてをあっさりと、諦めてしまったような。 「実はね、風邪じゃないんだ」
そう言って、六畳みやはマスクの紐に手を掛ける。
私はこの時、天地がさかさまになるような、体の中が暑くて、寒くて、左なのか右なのか上なのか下なのか、わからない感覚で。 「つるだから見せるんだよ」
そういって笑う、六畳みやの顔には。
「口、臭くないかな?」
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