第5話

 放課後になるまで自販機の前で時間を潰した。 帰りのチャイムを聞いて10分待つ。中央階段の規制線を抜け、二段飛ばしで駆け上がる。

 性格まで変わったみたいだ。前はもっと純粋に色んなものを信じていられたのだが。 夢とか?未来とかルールとか。 あと、心安らぐような男と女の関係とか。

 踊り場を通り過ぎる。合わせ鏡を通り過ぎるとき、また、あの少女が去り際に見えた。

 足を止めると、学校の中の小さな動物たちの声が聞こえてくる。ちょっと立ち止まって、振り返る。


「いち、にー、さん、し。いち、にー、さん、し」


 鏡の前で踊っている少女の姿。

 さっきは、私が通り過ぎるまでは、いなかったはずなのに。

 踊り場脇にはその子のらしい制服と、値札が付きっぱなしの学生鞄が置かれている。

 急に寒気を感じる。天井の窓が開いていて、風に乗った雪が吹き込んでいる。ふわりと待って落ちる方向には、緑色の不透明な水筒が蓋を開けて置 かれている。


「いち、にー、さん、し。いち、にー、さん、し」


 唐突に、満点星ゆりかの戯言を思い出す。学校に蔓延るウワサ。階段の合わせ鏡で、神隠し。そして、転校早々いなくなったアイドル。

 背丈はあの金髪狂犬キャラよりももっと小さく、小学生や中学1年生かとも思えたが靴のストライプは赤、高校1年生らしい。 まとめあげたポニーテールは明るい色の緑が差した黒色ベースだが、テレビの向こうに見るほど輝いてもいない。雪の白くコントラストのない光の性 質はあるにしても、遠目にから見て分かるほどに色艶を失い、パサついてしまっている。

 息を飲むほど張り詰めた表情で踊っていた。ステップを踏み込むたびに、鋭利な刃物を差し込むほどに甲高い音が鳴り響いた。 少女は立ち止まり、鞄の方へ歩いて水筒を拾う。少ない水を左右に揺らし、中に毒でも入ってないか確かめるほど睨みつけて、一気に飲み干す。 視線を感じて、こちらの存在に気づいたのだろうか。驚いた表情でこちらを振り向く。私も驚いて、何もいわず黙っている。 見つめあう膠着状態が、数秒続いた。

 少女は私が何なのか分かったらしく、口をパクパクさせて、指を差し向ける。勿論それがどのような事実に対してなのか、何が分かったのかは分から ない。けれど彼女の驚きようは普通では無かった。


「…あ、あの!」


 少女が話しかけてくる。いきなりの大声に、びくっと体を揺らしてしまう。今、可愛い子供を見る目とは似ても似つかない視線で、彼女を眺めている。す ると見る見るうちに少女は赤面してしまい、


「…ご、ごめん」


 言い残して、下の階に去っていく。

 踊り場まで下りて、床に転がった水滴のついた水筒から、彼女の残骸へ、そして鏡に視 線を移す。 ふと馬鹿正直に返答する必要もなかったと気づく。

 鏡の中の自分は、何も信じていない眼をしていた。新学期になってはじめて鏡を見たときと同じ眼だった。敵意をむき出しにした眼だった。

 雪を溶かして飲むほど困窮した少女に向けられる感情ではない。人のいない場所で、汗を流してステップを踏むアイドルに向けられる視線の種類で はない。

 

 でも――ふざけんな、だった。ふざけんな、そんなウワサなんてこっちは何も信じていない。

 

 神隠しだの、クチビルさんだの、こっちはどうでもいい。唇が無くなったのは困るけど、別に生きていけないほどではない。 こんな、不条理な、ガキのものぐさになるようなくだらないおとぎ話で私の人生めちゃくちゃだ。

 頭を過る――今では取り返せないもの。

 今になってあの金髪に言われたことに腹が立ってくる。蹴られて、耳が遠いって言われて、関係ない写真フォルダをいじられて、殺すぞって脅され て、挙句の果てに。

 あの日、トイレであの子に出会った日。私だって死にかけて大変だったのに。


 何かにあたらずにはいられなくなり水筒を蹴りとばす。壁に跳ね返って階下へと落ちていく。もっと心の中がぐしゃぐしゃして気持ち悪い、あの金髪も丸刈りの彼の事も――自分の顔も。

 唇を噛みしめることが出来ない自分。上あごの皮膚はグジュグジュだ。気分が悪い。意味が分 からない事が多すぎる。


 また、視線を感じて、上を向く。規制線の向こうで、マスクをした一人の少女がこちらを見ていた。


「つるぎ?」

「…みやちゃん」


 私は階段を駆け上がって、規制線を巻き込んで彼女の体に抱きつく。


「みやちゃん、みやちゃん…」


 この世で一番大好きな、私のお隣さんだった。

 涙が零れる。彼女に手を引かれて、その場を去っていく。

 視界の端、上の階から中央階段を下りてくる、そしてこちらの様子を伺っている、誰かの人影。シルエットのその人の手の内には、半透明の緑の水筒 が抱えられていた。

 頭の片隅で、あの少女の約束が反芻されて、吐いて捨てられる。

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