第4話

 とある世紀末のこと。

 3月の冬休み、2年生で副キャプテンだった私は上級生の引退とともにキャプテンに自動的にスライドされ、1年と2年合わせて総部員数5人で夏のイン ハイに向け練習を行っていた。暖かい間は体育館の部室を使って着替えをしているのだが、私が入ってくる前に建て替えられたのは校舎だけで、部室には暖房がついていなかった。冷気は運動する人間の肺に悪い。手もかじかんで練習にならないので…ボール練習は体が温まり切った部活の最後の方に集中する方針になった。キャプテンになるという重責を重く感じていたが、後輩たちの喜ぶ顔が見れるとやりがいもあったものだと思う。


 限られた出来ることをする。空き教室の一つを借り切って着替え、その後は走り込み、筋トレ、ドリブルを短い時間で密度を高く効率的に回数を重ねていく。

 校舎の中で練習をしているのはバスケットボール部だけではなかった。文化部はそれぞれの持ち教室で練習しているのは勿論、運動部で言えば野球部、卓球部にテニス部。サッカー部は雪の積もったグラウンドで練習しているのがさすが強豪だと思う。  

 後輩たちには内緒にしているが、私もグラウンドでのランニングを申請していたのだが断られていた。二棟ある校舎の中で卓球部は教室を借り切って卓球台を並べ、バスケ部は正門入り口に近いA棟。野球部はグラウンドと海の見えるB棟で練習をしていた。


 学園の校舎は海沿いの丘の上にあった。太平洋に面し、冬は大陸から日本海を通じて湿り気を帯びた風が山脈で雪を下して乾いた風が降り注ぐ。昔から海運の要衝だったこの地では丘の上で商業の発展を願って神社を建てて神を祀り、祈りを捧げる風習があったらしい。

 この学園は、江戸時代から神社と寺子屋が合体したような変なところ。校門の鳥居はその頃からあるものだ。学校なのに入り口に高さ4m長の赤い鳥居と校舎を 取り巻くように注連縄がしてあるのは、入学した時から誰もが変だと感じていた。けれど後で先輩から聞いた話によると、学校建設の工事で相次いだ 原因不明の事故の8割が、この鳥居を取り除こうとした機材や人員によるものだったという。


 どうしてこんな場所にわざわざ学校を建てようとしたのか。明治初期に木造の女学院が建てられた時にも反対運動が湧き上がったのも当然だと思う。 だって神様の住むところに礼儀もマナーも知らないような子供が集まってくるんだから。しかも、建てるスペースが無いからってハコ物を無理やり神聖な場所に建てようとするその貧乏魂胆。

 一回だけ学園長の顔を見たことがある。学園長兼町長の姫百合茂。名字ほど可愛くない、むしろ強面で年季の入った顔をしているおじさん。 始業式にも卒業式にも手紙を代読させただけで生徒は誰一人愛着は無いだろうけど、2年の夏休み、黒の高級車から出てきた彼は仰々しいスーツを 来ていながら汗一つ掻いていなかった。葉巻を口に咥え、太陽を敵のように睨む姿は銃でも持っていそうな狩人の雰囲気。

 そんな彼を追うように執事らしき老人が扉を開き、奥から一人の男の子が出てくる。学園長の息子で、町長の息子でもあり、住民からは嫌われ、生まれながらにしてその重責を担っている。あれほど絶望した子供の顔を人生で一度も見たことはなかった。一般人の私にも、それくらい容易に想像できてしまう。


 ――話は逸れたが、そういう色々問題を抱えた貴族が神に喧嘩売って建てたのがこの学校。

 そう。そういう場所だから、嫌なことばかりが起こる。

 

 辛い基礎練習を終え、体育館へと向かう途中。


「鶴首」


 呼びかけられて、振り返る。野球部の制服。

 家が二つ隣の、朝川晃くん。お互い仲のいい女の子の家を挟んだ、仲のいい女の子の共通の知人。

 その女の子の家で遊ぶとき、晃クンもいて何度か遊んだ。小学校も中学校も彼を特に意識したことは無かった、いやむしろ、晃クンはその仲のいい女の子が好きだったはずだ。


「話いいかな」

「?今練習中なんだけどー」


 笑って返すのが気恥ずかしくなるくらいの、重く湿った雰囲気。

 人に告白されたのは、それが初めてだった。


「…いやいや。みやは?みやが好きなんでしょ?私なんか――」

「ええ、あいつ?だっては…ただの幼馴染だし」


 朝佐川が近づいてくる。興奮して眼を見開いていて、気持ち悪い。


「…ごめん。今、練習中」


 そういって、走って逃げようとした途端、手首を掴まれる。


「ちょ…!」

「なんでバスケ部が校舎でやるのか、俺、知ってる。知ってるよ」


 壁に押し付けられ、足と足の間に膝を押し込まれる。

 自分よりも背丈の小さな男の子に、自分よりも強い力で押さえつけられて。

 いわれのない考えを、肯定されて。

 

 ――無理やり、キスされる。


「…!」


 押し付けられる頭蓋骨の硬さに、汗臭い動物のニオイ。

 何一つ他人を考えられない、自己中心的な性動物。

 怖かった。気持ち悪かった。冷たさの伝わってくる壁が痛いほど内臓を引っ搔いてくる。

 次の日から学校を休んだ。家に閉じこもり、布団の中で、思い出すまいと意識するたびに無意識的に反芻される汚物の記憶。 キスってもっと気持ちいいものだと思っていた。幼馴染に誘われるまで家の中で耽っていた、小説や映画の世界が作り物なんだと分かった。 部屋の中は時計がない。今が朝なのか夜なのか分からない。窓を開ければ隣の幼馴染と話すことが出来る。

 けどそれすらも、罪悪感で出来るはずがなかった。

 部屋の扉の向こうへ足を踏み出して…一階に下りたのはそれから3週間ぐらいあとのことだった。親が出ていったのを車の音で確認して、きっと酷く崩れた顔を、あの日 の汗をそのままにしておいた最悪の姿を、誰が見てもガッカリするだろうから。せめてお風呂に入りたいと思った。 風呂場に入り、服を脱ぐ。ふと、洗面器を前にして立ち止まる。

 自分の顔を見ることすら勇気のいることだった。

 心臓が暴走する。けれどどうせここで顔を上げなくたって、風呂場の姿見でどうにも目に入ってしまう。

 それよりは、決心をして現実を受け入れた方が楽だった。部屋を出る。風呂場まで歩く。服を脱ぐ。何回も何回も途中で止めたことを、今日、終わらせてしまいたかった。

 もし、事件がそれだけの、キスぐらいのことだったなら、私はもっと早く立ち直れていたのだろう。


 顔を上げる、顔を見る。

 そして、今に至る。

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