第1話

 まただ。無意識のうちに唇の皮を噛んでいた。歯が食い込みすぎた所がピキッと割れ、舌で血を舐めとる。 小学生の頃よくやっていた癖が最近になってぶり返してきたみたいだ。

 顔写真撮影の教室までは中央階段を通るのが近道なのだが、私の休んでいた間に何かあったのか規制線が張られている。 ふと、記憶が蘇る。あのトイレでの一件を思い返すと足が重かった。マスクから血の匂いがした気がする。


「……」


 頭に浮かぶ由無し事を振り払うように、規制線の黄色いテープを踏み越える。あの件に関して、私は何一つ信じないことに決めたのだから。 目標の教室は階を2つ上がって左の空き教室だった。この学園は使っていない教室が多く、元々は女学校だったのが私が1年の頃から共学になっ た。単純に生徒の数が足りないのだが、数年前に建て替えられた新校舎が、授業中とはいえこれほどまでに静かなのは寂しい気もした。階を一つ越 え、踊り場に足を踏み入れる。学校を休んでずっと家にいたからか、たった数階の上り下りですぐ息が苦しくなってしまう。周りに誰もいないのを確

認し てから、マスクを外し、深呼吸する。


「ふーっ…」


 天井近くの窓ガラスの外では雪が降っている。三月の終わりから降り続けている。

新設される前は校舎に暖房が無かったと先輩から聞いたときはラッキーだと思った。こんな地方の私立のどこに資金があるのか分からなかったが、 損をしない限りは騙されていようがどうでもいい。

 そして三月か、と思う。あれだけの傷を負ったのに、たった2か月前のことが遠い過去のようで。

 目の前の姿見に顔を向ける。学園では階段の踊り場ごとに等身大の鏡が設置されている。上り側と下り側の両方で、合わせ鏡になっている。夜、誰も いないときに覗き込むと神隠しに会ってしまう、なんてウワサもあるくらいだった。勿論そういう類の話は全否定のスタンス。 大きな鏡には自分が映っていた。休んでる間に背筋が弱くなったかな、と姿勢を正すと胸が強調されて見える。


 長い首、女子の癖に高い身長と、あとこの胸。小さい頃はツル首ハト胸なんて言われていた。けれど私の名前はハトではなく、鶴。 鶴首つるぎ、私の名前。

鶴の頭には赤ぼちの毛が生えている。鶴首という名字の名の通り、私の前髪の一部には赤が差している。小さい頃入っていたミニバスで頭を強く打っ て、血が頭の表皮の組織に滲んだ後遺症。下のつるぎというのは、両親が私に剣のように鋭く、固く、凛々しく育つことを願って付けた名前だった。だ いぶ猫可愛がりして育ててくれたのはありがたい。その恩に報いたい気はする。

 ハァ、とため息をつく。常に口が塞がっていないと、年ごろの女子としては匂いも気になる。なんとなく自分の吐息にくすんだ色が付いている気がして、手で仰ぐ。

 お父さんお母さんごめんなさい。名前に見合わない軟弱な娘に育ちました。

 高校三年生に進級して初めの二か月を、私は休んでしまった。詳しくは1か月半と、そして学校へ出て、また1週間の休み。 トイレの事件は1週間分以上のショックだったのだが、学校から両親直々に卒業のための日数が足りないと電話が来た。辛いなら休んでいいよと言っ てくれた両親も土下座で頼むから学校に出てくれと頼んできた。私立で休学の資金もままならず、私は休みの理由を体調不良と偽って両親に告げて いたため頼みを無下にも出来ず、成り行きだった。

 2年までの復習もしていないから勉強にもついていけない。 大体の友達は早々に進路を決めて学業もしくは部活に励んでいる。

 私も部活をしていた。結構活動的に、インハイを狙えるぐらい。それも、今では幽霊部員だ。

部活に関すること。いや、具体的には冬休み、部活の休み時間での出来事。


 それは1か月半以上のショックだった。


 今学校に来れているのは、そのショックの原因が部活の遠征でここにいないから、それだけ。 …そろそろ行こう。そう思って歩き始めた瞬間、姿見の自分の背後に背丈の小さな少女が見える。


「…!」


 慌ててマスクを付け、振り返る。だが、誰もいない。

 姿見をもう一度覗き込むが、疑心暗鬼の自分が映っているだけだった。

……いや。

 階段を、二段飛ばしで駆け上る。

 

 私がカメラの前に座ってからシャッターが押されないまま数分の膠着状態が続いた。マスクを外す気がないのに椅子に座った私は教師の眼にどう 映ったのだろう。鶴首つるぎ的にも最初から徹底抗戦の構えであった。のっぴきならない事情があるのだと分かってもらおうと思っていた。最初は冗談 だと笑っていた男の教師は、揶揄われているのだと憤慨の色を見せ始め、途中から教師の剣幕が鋭く、冷たい声色に変化していった。怖くなって縮こまってし まった私は別に抵抗の意思などさらさらなく、ただ椅子から動くことが出来ないだけだった。

 最初は口角泡を飛ばして正論と説教を飛ばしていた教師も途中で呆れ果て、だんまりが続く中で仕事のないカメラマンだけがただただ不憫。 と、唐突に、ガンガン、と教室の扉を叩く音でその場の誰もが飛び跳ねる。カメラマンなんて商売道具によりかかって居眠りしていたのが、三脚が倒れ ないように慌てて手で抑える。

またガンガン、と必要以上に暴力的なノックが聞こえて、教師は思わず止めろ、と駆け寄る。

 そこに立っていたのは、トイレで会ったあの少女だった。

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