機械少女にリップクリームは似合わない

@AKIHABARA

序章


 体育館隅の女子トイレの血だまりの中で、一人の機械少女がリップクリームを拾う。入り口近くの鏡に顔を映していた。


 ――リップクリームに使用期限があることを初めて知った。蓋を開けると微かに桃の香りがするが、期限は10年も前に終わっているらしい。包装の絵は白く摺り切れていて何が描かれていたのか想像するほかなかった。


「(…使ったらお腹壊すんじゃないか…)」


 ふと頭の上に浮かんだ考えは――鏡に映った様相にはとても似合わないほど可愛らしく――笑ってしまう。髪の毛の一本までヒトでないものに変わり果てても、衛生観念ぐらいは残っているらしい。

 私はリップクリームを口の中に飲み込む。作戦後の回収を免れるためだ。

 分泌液のないカラダは伽藍洞で、リップクリームを塗らすような、文字通り血も涙もない。もしくは制服の中という選択肢もあるが――返り血に染まった衣服で他人の貴重品を持ち運べるほど、無神経でもないつもりだ。

 なぜ貴重品だと思ったのか?それは『10年前のリップクリーム』を『今さっき』拾ったから。周りを見渡すと陽に焼けた薄茶の壁に未だ光沢を蓄えたタイル、疑いなくここ10年未満の新築だし、事実この学園は建て替えられたばかり。ただし飛び散った鮮血と所々ゼロ距離でショットガンの餌食となったような痕跡を除けばの話。

 リップの減り具合からして所持者は1、2回使ってそれっきりらしい。考えられる可能性は、誰かさんの小さい時に買ったモノが持ち物に紛れ込んでいたのか、後になって使おうと思って入れたバッグやらポーチの入れ物を最近になって引っ張りだしたのか。それとも、擦り減らすのは勿体ないほどに大事にして、10年も肌身離さず持っていたモノを失くしてしまったのか。


 さて、ずいぶんどうでもいいことに長く逃げた。さっきからあえて見ないようにしている血だまりの中心には死骸が転がっている。まだ生温かい内臓をクッションにしたスレッジハンマーの影がわたしの背中を構ってほしそうにつっついてくる。

 体躯は2m近く巨大で、フランスパンとかコッペパンの四隅にフィギュアの青白く短い手足を取って付けたような不細工な造形。膨張した胴体は豚や牛の臓物をかき集めて白い薄皮に押し込んだようにほの赤く、頭頂部から股に掛けて大きな皮膚の裂け目がめくれ上がって口唇のよう。

 これが最近学校で流行っている『クチビルさん』なるウワサの正体。実際生徒の何人かはこの怪物に食べられてしまっていた。

 ちなみにハンマーの持ち主はもちろんこのわたし。下された命令は捕獲。しかし怪物は体躯の割りにあまりに脆く、目論見を外れ牽制のため小突いただけで死んでしまった。

 失敗を思い出して無意識のうちに唇を噛む。この体になってからは久しい習慣。意味のない自傷行為。とてつもない徒労感が体の節々を軋ませる。またハカセに皮肉交じりの小言を向けられるんだろう。最近では脳内の彼も喋るようになってうざったい。

 彼は言う。

『クチビルさん』が現れたのも、わたしが機械の体になったのもすべて呪いの仕業。博士はそう言っていた。『クチビルさん』は呪いを掛けられた誰かの唇が変身したものだと。唇は所有者の肉体を離れ、化物に姿を変え人を襲う。個体を殺してしまうと唇が本人の体に戻ることも無くなってしまうかもしれない。海と人間の地を結ぶ地理的な意味を持ったこの学園は神的霊的存在の集まりやすい性質があって、第二次成長期にある少年少女の昏く淀んだ情動や葛藤が呪いとして姿かたちを帯びて――……。

 重い、ため息を吐く。

 理屈なんてどうでもいい。わたしの呪いはどうせ解けない。

 また唇を噛む。今度は、誰かに何か強いられているように、演技のように。唇は皮ふのめくれあがった所で、裏表が唯一混在している。『目は口ほどに云々』とよく謂われるが、だとしたら唇は心ほどに雄弁であるはずだろう。

 気持ちが揺れればささくれ立つし、怒りや憎しみ、悲しみが張り詰めると亀裂が入って血がにじむ。心が無いなら唇は要らない。アンドロイドに唇は似合わない。


 …深く深呼吸して、脳のストレージの湿った熱を放出する。機械の体になってから記憶は並列処理されるようになり、端的に言えばわたしは、あらゆる物事を記憶することが出来るようになっていた。

 機械の体になってから27年間、つまり高校3年間を9度繰り返した彼女のすべての記憶は、一つの例外もなく同様の重要度で、優劣も順番もなく、メモリーに保管されていく。しかしそれゆえに物を思い出すことが上手く出来なくなってしまっている。

 すべての記憶は優劣も貴賤も上下もなく蓄えられていく。例えば無数の弾丸が飛び交う戦場で、後ろからだろうが前からだろうが、自分の肉を切り裂き、抉る傷の跡をいちいち記憶する兵士はいない。

 わたしの体を覆う合成金属の装甲は30年近い戦闘と実践の中で無数の傷を蓄えてきた。無論、その内側も。それでも兵士の傷はいつか癒える。そうではないわたしが記憶を保つためにはある秘訣が必要だった。それも今回は、必要がなさそう。

 血の染みたローファーと靴下を脱いで、掃除用の備品のスポンジで足を洗う。しかし脱いでから武器を回収するのが先だと思い立って、手際と順序の悪いグダグダな自分を自嘲して、素足で血だまりを歩いていく。

 奥の壁には摺りガラスの窓があって外はちらちらと雪が降っているらしかった。

 もう五月なのに、だ。

 昼の間も欠かさず降り続けている。3月のなごり雪からずっと異常気象で、こんなことは経験がなかった。こんな気分でなければこういうイベント事は、記憶しやすくて好都合なんだけど。こうしてしんしんと降り注いでも夜の間にはすべて融けてしまう。また次の朝には同じような景色を見ることになる。正直、見飽きていた。


 もういい済んだことだ。武器を仕舞い、踵を返して廃校に戻ろうと思ったその時。


 真ん中の個室の扉が開いていた。さっきまで閉まっていた筈で、今までまったく考慮していなかった。誰かの存在など。

 その中の少女と、目が合う。


「……」


 地面にへたり込み、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見上げている。それでもしゃんと伸びた背筋とそれなりに研磨された筋肉。伸びてはいるが短く切りそろえられた髪からスポーツ経験者だと推測が立つ。事実スタイルは洗練され、長い首と張った大きな胸は女性的な魅力に溢れていた。辛うじて助けを求めようと開いた口からは掠れた呻き声だけが聞こえてくる。昼食を取っていたのだろうか、膝元には弁当箱とその中身が散らばっており、耳からは片方抜けたイヤホンが垂れ下がっている。


 …美少女が放課後のトイレで食事をしている。相応しくないシチュエーション。


 そこで、さっき思考した可能性に含まれていなかった選択肢。

 『10年前のリップクリームを落とした張本人が』『この場に残っていた』こと。

 しかし――いつから?

 戦闘中は感覚が過度に鋭敏になる。動くものはまず間違いなく、思考より先に粉砕される。この部屋に獲物を追い込んだ時からドアは閉まっていた。いや、この学園のドアは自重で閉まるように設計されている。確実に私の行為は彼女に視認されている。

 しかし――それなら、


 つい思考を巡らせてしまう、の選択肢を前にして…しかし、かき消すように胸の中で叫ぶ。

 走れ。今ならまだ忘れられる。

 実際、わたしの脚力なら地面を一蹴するだけで、この場から体育館入り口まで跳躍することが可能だった。扉や壁など、障害のうちにも入らない。

 「ウワサ」の真実に触れて学校に居続けられた人は一人もいない。わたしに近づいて消えた教師も生徒も、同じ表情で、次の日にはどこか遠くへ飛ばされた。私の力など及ばない、暴力に似たまったく違う形態の力によってだ。

 一人一人の顔など覚えていない。覚えれば、否が応でも関わってしまう。


 深窓の彼女が視線を落とす。頭頂部から前髪には斜めに赤みが差している。手を伸ばした先には、血に触れて染まったマスクが落ちていた。彼女はおもむろにマスクを手に取ると、血に塗れているのも構わず口を覆ってしまう。その気持ち悪い感触は容易に想像できた。そして力なく微笑みかけてくる。恐怖で頭がおかしくなってるんだと思う。


 そして――後悔した。もう、覚えてしまった。

 関わらざるをえないんだろう私は。たとえ傷つけてしまうとしても。

 今はもう見えなくなってしまった少女の口。

 そこにあるはずの、唇は無かった。



(続)

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