生塩リラ編 第4話 燈

 父親が事故に遭った。

 体が動かないらしい。

 高校3年生になったばかりの頃だ。


 母親はずいぶんと昔に家を出ていった。

 何が原因だったのか、燈にはわからない。

 ただ、決定的な何かがあったというわけではなくて。

 小さな何かが積み重なって、けれどそれは必然としか言いようがなかったのは、わかるし、覚えている。

 父親は決して金を稼げる人間ではなかった。

 決して、素晴らしい人間ではなかった。

 父親が夜に家にいないことはそれなりに心地がいいことだった。

 だから、父親が仕事の事故で両足を失ったことは決して、喜ばしいことではなかったのだ。

 眠れない夜が、続いた。


 金はなかった。

 入院をさせることもヘルパーを雇うこと、そういったことは出来なかった。

 生活保護をもらい、バイトを始めた。

 もともとやっていたがさらに増やした。

 帰ると、父親がわめいている。

 ひどく、眠れない。

 あまり家にいたくはなかった。


「空白くん、起きてください。もう下校時間ですよ?」

 ふと、目を醒ます。

 外はもう暗い。生徒会室だけが煌々と明かりをともしている。

「…………寝落ち、してたんだ」

「はい。ぐっすりでしたよ」

「ごめん。手伝う手はずだったのに」

「いいんです、燈くん。ぐっすりで可愛らしい寝顔でしたよ」

 隣に座るリラがにこやかに微笑んでそういう。

 距離が近い。

 彼女との関係を言葉にするのは難しい。

 言葉にしたく、ないのかもしれない。

 彼女の肩に頭をぶつける。

「どうかしたんですか?」

「いや、少しね」

「? そうですか」

「うん……」

 雪が、闇の中に降っていた。



「大学は此処に行こうと思っているんです」

 そういってリラはパンフレットを見せてくる。

 都市のほうある大学のモノだった。

 確か、それなりの偏差値の大学だったが、彼女なら問題なく合格するだろう。

「燈くんは、どうするんですか?」

 曖昧に言葉をぼかして答えなかった。

 大学に行く予定はなかった。

 金も、勉強する時間も、何もなかった。

 肉親である父親を見捨てられるほど、非道にはなれなかった。

 

 父親がいる夜は、眠れなくなる。

 それがずっと続いている。


「空白くん」

 リラの声が聞こえる。

 朝の陽ざしに彼女の姿が映える。

「今日は――」

「ごめん、今日は予定があるんだ」

「……そうですか」

 そういうことが増えた。

 だんだんとリラと話すことが減ってきている。

 

 今日もバイトだ。

 今日もバイト。

 成績が著しく、おちていく。

 眠れていない。

 顔には出ないほうだが、だれかにこの姿が見られていないだろうか。

 友人が減っていく。

 皆、受験勉強に本腰を入れ始める。

 そうでなくとも、就活で忙しい。

 自分は、どちらにもいられなかった。

 父親の酒代で生活保護費は消えていく。

 ここまでだったか。

 ここまでこの男は。


 

 ある日、リラにあたってしまった。



 些細なことで、些細ないさかい。

 いや、オレが一方的に悪くて、彼女は終始冷静だった。

 後に謝罪したときも、

「いいんです。今はみんなピリピリしてますから」

 そんなことを言われた。

 胸がかきむしられるようで、涙がこぼれた。


 それから彼女とは距離を取るようにしていった。

 友人も随分と減っていった。

 時折、彼女から声をかけられる。

 けれど、みんながそうであるように彼女もまた人生の岐路に立ち、忙しそうだった。

 少しの言葉、それでおしまい。

 オレは、どこにも立っていない。


 月日が流れた。 

 泥の濁流のように、時間が流れた。

 

 卒業の日。

 雪が降っていた。

 式を済ませて帰路についた。

 もう、ここにいたくなかった。

 ここにいられないと思った。

「燈くん!」

 知っている殸。

 大好きな声。

 生塩リラがいる。

 彼女は息を切らしている。

「あの! 私、」

「生塩!」

 がさがさと音がする。

 積もった雪が枝から落ちた音だ。

 生塩と、オレはそういった。

「じゃあね」


 それきり。



 父親が死んだ。

 土手を滑り落ちて、川で溺死していた。

 自分から落ちたのではないかという話も出た。

 どちらでもよかった。


 涙が出ることはなかった。

 散らかった家のなかに、一人。

  

 もう二十歳になっていた。

 


 それから親戚の伝手で保澄さんの喫茶店を手伝うことになった。

 どういう経緯があったのか、もう覚えていない。


 ただ、働いた。特にそれ以外はなかった。


 茫漠とした、灰色の季節が流れていく。



 父親の墓前で、空白燈は立ちすくんでいる。

 ふと、別の誰かの足音。

 みると妙齢の女性の姿があった。

 その人は、燈にとって母親と呼ぶべき人だった。

 少しの会話。

 親子の会話では、なかった。

 共通の知り合いを持つ他人同士の会話だった。

 彼女にももう別の家族がいる。

 和解だとかなんだとか、そういう話はとっくの昔に通りすぎた後だった。

 社交辞令だけ。

 

 語ることなど、なにもない。



 墓前から立ち去り、歌狩の、自分の故郷を歩く。

 当てもない。

 回想することなど、回想したいことなど、ない。



 雨が降っている。

 


 ふと、土手があった。

 父親が死んだ場所だ。


 雪解けで、川の流れが急になっている。


 ボンヤリと土手の上から川の流れを見ていた。


 帰る過去も、行くべき未来もない。

 

 濁流の中で所在なさげな岩がずっと見えていた。

 

 ふと、脚を踏み出して。


「燈くん!」

 知っている殸。

 大好きな声。

 生塩リラがいる。

 彼女は息を切らしている。

 

 傘もささずに、彼女は雨に打たれている。

 今にも泣きそうな後悔を抱えた声を上げた。

 

 その姿が一人きりで、寂しそうで、独りぼっちで、抱きしめたくなって。


 彼女はくしゃくしゃの声で。





「燈くん………………あなたが、すき………」

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