生塩リラ編 第4話 燈
父親が事故に遭った。
体が動かないらしい。
高校3年生になったばかりの頃だ。
母親はずいぶんと昔に家を出ていった。
何が原因だったのか、燈にはわからない。
ただ、決定的な何かがあったというわけではなくて。
小さな何かが積み重なって、けれどそれは必然としか言いようがなかったのは、わかるし、覚えている。
父親は決して金を稼げる人間ではなかった。
決して、素晴らしい人間ではなかった。
父親が夜に家にいないことはそれなりに心地がいいことだった。
だから、父親が仕事の事故で両足を失ったことは決して、喜ばしいことではなかったのだ。
眠れない夜が、続いた。
金はなかった。
入院をさせることもヘルパーを雇うこと、そういったことは出来なかった。
生活保護をもらい、バイトを始めた。
もともとやっていたがさらに増やした。
帰ると、父親がわめいている。
ひどく、眠れない。
あまり家にいたくはなかった。
「空白くん、起きてください。もう下校時間ですよ?」
ふと、目を醒ます。
外はもう暗い。生徒会室だけが煌々と明かりをともしている。
「…………寝落ち、してたんだ」
「はい。ぐっすりでしたよ」
「ごめん。手伝う手はずだったのに」
「いいんです、燈くん。ぐっすりで可愛らしい寝顔でしたよ」
隣に座るリラがにこやかに微笑んでそういう。
距離が近い。
彼女との関係を言葉にするのは難しい。
言葉にしたく、ないのかもしれない。
彼女の肩に頭をぶつける。
「どうかしたんですか?」
「いや、少しね」
「? そうですか」
「うん……」
雪が、闇の中に降っていた。
※
「大学は此処に行こうと思っているんです」
そういってリラはパンフレットを見せてくる。
都市のほうある大学のモノだった。
確か、それなりの偏差値の大学だったが、彼女なら問題なく合格するだろう。
「燈くんは、どうするんですか?」
曖昧に言葉をぼかして答えなかった。
大学に行く予定はなかった。
金も、勉強する時間も、何もなかった。
肉親である父親を見捨てられるほど、非道にはなれなかった。
父親がいる夜は、眠れなくなる。
それがずっと続いている。
「空白くん」
リラの声が聞こえる。
朝の陽ざしに彼女の姿が映える。
「今日は――」
「ごめん、今日は予定があるんだ」
「……そうですか」
そういうことが増えた。
だんだんとリラと話すことが減ってきている。
今日もバイトだ。
今日もバイト。
成績が著しく、おちていく。
眠れていない。
顔には出ないほうだが、だれかにこの姿が見られていないだろうか。
友人が減っていく。
皆、受験勉強に本腰を入れ始める。
そうでなくとも、就活で忙しい。
自分は、どちらにもいられなかった。
父親の酒代で生活保護費は消えていく。
ここまでだったか。
ここまでこの男は。
ある日、リラにあたってしまった。
些細なことで、些細ないさかい。
いや、オレが一方的に悪くて、彼女は終始冷静だった。
後に謝罪したときも、
「いいんです。今はみんなピリピリしてますから」
そんなことを言われた。
胸がかきむしられるようで、涙がこぼれた。
それから彼女とは距離を取るようにしていった。
友人も随分と減っていった。
時折、彼女から声をかけられる。
けれど、みんながそうであるように彼女もまた人生の岐路に立ち、忙しそうだった。
少しの言葉、それでおしまい。
オレは、どこにも立っていない。
月日が流れた。
泥の濁流のように、時間が流れた。
卒業の日。
雪が降っていた。
式を済ませて帰路についた。
もう、ここにいたくなかった。
ここにいられないと思った。
「燈くん!」
知っている殸。
大好きな声。
生塩リラがいる。
彼女は息を切らしている。
「あの! 私、」
「生塩!」
がさがさと音がする。
積もった雪が枝から落ちた音だ。
生塩と、オレはそういった。
「じゃあね」
それきり。
※
父親が死んだ。
土手を滑り落ちて、川で溺死していた。
自分から落ちたのではないかという話も出た。
どちらでもよかった。
涙が出ることはなかった。
散らかった家のなかに、一人。
もう二十歳になっていた。
※
それから親戚の伝手で保澄さんの喫茶店を手伝うことになった。
どういう経緯があったのか、もう覚えていない。
ただ、働いた。特にそれ以外はなかった。
茫漠とした、灰色の季節が流れていく。
※
父親の墓前で、空白燈は立ちすくんでいる。
ふと、別の誰かの足音。
みると妙齢の女性の姿があった。
その人は、燈にとって母親と呼ぶべき人だった。
少しの会話。
親子の会話では、なかった。
共通の知り合いを持つ他人同士の会話だった。
彼女にももう別の家族がいる。
和解だとかなんだとか、そういう話はとっくの昔に通りすぎた後だった。
社交辞令だけ。
語ることなど、なにもない。
墓前から立ち去り、歌狩の、自分の故郷を歩く。
当てもない。
回想することなど、回想したいことなど、ない。
雨が降っている。
ふと、土手があった。
父親が死んだ場所だ。
雪解けで、川の流れが急になっている。
ボンヤリと土手の上から川の流れを見ていた。
帰る過去も、行くべき未来もない。
濁流の中で所在なさげな岩がずっと見えていた。
ふと、脚を踏み出して。
「燈くん!」
知っている殸。
大好きな声。
生塩リラがいる。
彼女は息を切らしている。
傘もささずに、彼女は雨に打たれている。
今にも泣きそうな後悔を抱えた声を上げた。
その姿が一人きりで、寂しそうで、独りぼっちで、抱きしめたくなって。
彼女はくしゃくしゃの声で。
「燈くん………………あなたが、すき………」
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