生塩リラ編 第1話 リラの花が咲く頃

 ふと、いつかの夢をみる。

 それはきっと、起きながらにしてみる夢だ。

 真昼に浮かぶ月のような。

 溶けきる前の雪のような。

 

 そんな、いつかの恋のような。


1.

 静かな喧騒が響いている。

 銀行という場所の空気はそう表現できると思う。

 数字と札束を数えて、書類を片す。

 大学卒業後、成り行きでこの地銀に就職したが概ねすることは書類業務が常だ。

 人付き合いは好きだが接客は好きではないので、のらりくらりと裏側での業務の割合を増やすように立ち回って今がある。

 書類仕事はもともと得意だったし、今もこうしてうまくこなしていると思う。

「生塩さん、ありがとうございます。僕の分まで……」

 恐縮しきりの小太りの青年が困ったように汗をかきながら彼女に頭を下げる。

「いいえ、困ったときはお互い様ですよ桑名さん」

 生塩リラは、いつものようににこやかな微笑を讃えてそういった。

 静かなる喧騒の中、そんなやり取りをする。

 この桑名という小太りの青年、いわゆるコネ入社といった形で入ってきたボンボンで、あんまり仕事のできる性質ではない。だからこうして誰かが彼の分の仕事の尻拭いをしなくてはいけなくなるのだが。

「……ひそひそ」

「ひそひそ……」

 こうして陰でひそひそ言われる程度にはこの桑名という青年は好かれていない。

 誰もやりたがらない、彼の後始末を負かされるのがリラになることは多い。

 もっとも、それもこみこみで考えて仕事のペースを配分しているのでリラ的には問題ないのだが。

 やりたくない仕事をうまい事のらりくらりと躱している手前、これくらいは些事だと思うことにしている。

「こ、こんど……なにかお礼を……」

「いいんです。これくらい全く気にしないでください」

 にこやかにリラは言う。

 桑名という青年のいいところはこうした言い回しで深追いしてこないところだと思う。

 やがて15時になり、銀行が閉まる。とはいえ銀行員の業務がそこで終わるわけではなく、そのごの業務もあるがこれもサクサクと進める。

 改めて就業時間になった。

「では、私はこれで失礼します」

 そういってリラはさっさと職場を後にする。

 残業はできるだけしたくない主義なので、できるだけ早く切り抜ける。


 肌寒い風が吹いた。

 木枯らしが肌に痛く刺さる。

 すたすたと、リラは札広市の騒がしい、今度は本当に騒がしい喧騒の中を歩く。



 札広市――彼女の住む雪国の県庁所在地であり、政令指定都市。

 彼女の出身地である歌狩市からは少しばかり離れた都市部でいま彼女は暮らしている。



「ただいま」

「おかえり、ねえちゃん」

「うん? カイトも早かったんだ」

「うん。今日は塾もねえし」

「別に自習に行っててもいいんですよ」

「……別に、自習はこの家でもできるし、ちゃんと勉強してたよ」

「そう。ま、貴方がそれでいいならいいけど」

 らしくなく雑な口調で対応するリラ。

 彼女の住むアパートの奥で唇を尖らせている15歳の端整な顔立ちをした少年の名は生塩カイト。高校浪人中の受験生であり、生塩リラのいとこである。

 兄弟ではない。

 もともと札広の進学校を志望していた彼だったがものの見事に結果は惨敗。その他滑り止めも彼の滑落を止めることが出来ず、宙ぶらりんとなり、しかして今度こそはと一念発起、札広に住んで勉強漬けになるぜといったはいいが。

「その結果が私の世話になることなのですから立派なのか何なのかですよね……」

 なんだかんだがあって、カイトはリラの家に転がり込んできた。

 朝から晩まで勉強するのはいいし、両親の応援と援助があるのは助かるがどうも昔からあの一家は人の厚意に頼り切りになることにまるで衒いや躊躇いといったものがない。

 おかげでそれなりにいいマンションで暮らせているのはそうなのではあるが。

「リラちゃん」

「なんですか? それとリラおねえちゃんと呼びなさい」

 ひょっこりとまた奥の部屋から顔を出すカイト。リラのいつもの軽口は気にかけず。

「俺、今晩は食べてきたからいらないよ」

 などと言い出した。

「はぁ。全く貴方って子は」

 文句の一つも言おうかと思ったが、まだ夕飯は決めていなかったし、それならそれでいいかと考えることにした。

「何を食べて来たんですか?」

「ナポリタン」

「最近行きつけにしている喫茶店の?」

「うん」

「そう」

 最近、カイトはそこで友人と勉学に励んでいるらしい。

 喫茶店で勉強って迷惑ではないのかと思ったりもしたがサラリーマンを定年退職した人間が老後の趣味で経営している店らしく、快く歓迎してくれているそうな。

「じゃあ私だけですねー晩御飯はー」

 そう独り言ち冷蔵庫をあさる。

 いくつか目ぼしい選択肢はあったが、結局面倒になって冷凍食品にすることにした。


 ナポリタンを食べた。

 ふと、なにか懐かしいような。そんな気持ちになる。



 残雪のあぜ道を歩く。

 ざくざくと軽快な音が空っぽの田舎道、透き通るような寒空に響いている。

 少女――生塩リラ、高校最初の春のこと。


 どうでもいいような入学式が終わる。

 暖房のない古臭い体育館は全く寒くてかなわない。

 特に足。ひっそりとタイツを二重に履いているのだが、焼け石に水という言葉はなるほどこういうものかと実感してしまう。

 廊下をほか複数の同級生たちとずらずら歩く。

 木造建築の古臭い建物を何度も補修工事したのであろう痕跡が多く残る。

 もうそんなに永くなさそうな建物であった。

 

 隙間風を浴びながら一年の教室に入り、指定された椅子に座る。

 窓の外に、桜は未だ咲いていない。

 窓際真ん中、それなりにいい席だ。まあそのうち席替えをするのであろうことは明白であるのだけれど。

(……そこらへん、怠惰な教師が担任だったらいいですね)

 そんな風に思う。

 不意に、窓とは反対側、隣の席に座っているひとを見る。

 

 多分、その瞬間が私の―――。



 目を醒ます。

 なんだか懐かしい夢をみていた気がした。

 きっと、もうすっかり終わらせてしまった夢だ。

「…………よし」

 のっそりと起き上がり、スマホを確認する。

 今日は花の金曜日、と予定を確認したところで思わずげんなりとしている自分に気づく。

『会長(元)と夕食』

 と書いてあった。



「お待たせしました」

「いや」

 仏頂面で知田は答える。

 学生時代からの付き合いだが、彼との会話はいつだって業務連絡か何かのように感じる。


 いわゆる高級レストランといわれるところ。

 リラの目前で表情を変えずに料理にフォークを刺している眼鏡の男は知田という。

 彼との関係はそれこそ高校時代に遡る。

 一年の下半期、生徒会なる組織に所属したのを覚えている。

 二年の下半期、この知田なる人が会長の座についてなし崩し的に自分が副会長になったことを憶えている。

 何かと忙しいその組織にどういうわけで所属し、どういうわけでそんな面倒な役職に就任する羽目になったのか、もはや曖昧な記憶だ。不思議な縁がかみ合った結果と思うことにしている。

 さらに言えば、高校時代に知人といまだにこうして交流が続いているのも不思議な縁である。

 二人して同じ時期に札広に出てきて、ばったり再会してからこうして交流がある。

 彼のほうからこうして誘いが来るのがほとんどなのだが。

 こうして美味しいご飯を奢ってくれるので特に断る理由もないなと、思ってしまうのは良くないことだなとは思っている。


「ところで」

 食事を続けながら不意に話題を切り出す知田。

 口に含んだムニエルを咽そうになる。

 彼は昔からタイミングというものがとにかく悪い。

「きみはどんな花が好きだ?」

「……むぐむぐ、花、ですか?」

「そうだ」

「んー? とくにはですね……」

「そうか」

 また無言が続く。

 とても会話に困る。

 

 彼が自分にその気があるのだということはなんとなくわかる。

 どうあれ長い付き合いだ。その程度は読めるようになる。

 私だって高校が終われば一緒に終わってしまう関係性だと思っていたのだ。

 しかしながらこうして縁が続いている。そこには相手側の意思が少なからずあるわけで。

 というかこうも仏頂面で無口な人間がたまたま再会した古い知人と交友関係を続けようという時点で一定の好意があるのは明白ではある。

 これがとても困るというか、今は態度を曖昧にいなせるけれどもいざ正面から告白でもされたら私には断る理由がなくなってしまうのだ。

 これが、とても困る。

 流れで「はい」の言葉が出てくるだろうし、その将来の私はたぶんいうほどそのことを後悔しないであろうことがわかってしまう。

 人生なんてものはそういうものなのだと私は知っている。

 どうにもそのことがうすら怖い。

 その理由を探している気がする。

「……―――……――……」

「あはは、そうですね」

 なんだか中身のない会話が続く。

 そうしている間にこの日は終わった。

「では、またいづれ」

「あ、えはい? はい。お疲れさまでした」

「この場合はごちそうさまでした。と応えるのが適切だろう」

「そうですね。ごちそうさまでした。いつもすみませんこんないいところで奢ってもらって……私はファミレスで割り勘でも構わないのですが」

「食べてから言うことじゃないな」

「うぅん……、そうですね。すみません」

「別に構わない。俺が好きでしていることだ」

「ですが……やっぱり私も払って……」

「では失礼する……」

「あ……」

 さっさと切り上げて知田は帰ってしまった。

「……」

 夜道に一人取り残されてしまった。

「はぁ……」

 溜息を吐く。

 まあ、いいけど。と独り言ちる。

「帰るか……」

 夜道を歩く、ひとり。不安はない。いつものことだ。

 バッグからケータイを取り出してカイトに今から帰るよとメッセで連絡を入れる。

 するとまだ家にいないという返信が帰ってきやがった。

 電話をかける。

「もしもし、もう9時半ですよ? 塾の授業も終わる時間ですし、そもそも今日は最終の授業はないでしょう? どこで油を売ってるんですか? ――……、例の喫茶店で寝過ごした、ですか。店員さんの厚意に甘えて置かせてもらっている? わかりました、居間から迎えに行きます。お説教の覚悟をしておいてくださいね♪」

 何やら抗議の台詞が聞こえそうになったが無視して電話を切る。

 

 もとより興味自体はあった喫茶店だ。休日にでも行ってみようと地図は頭に入れている。

 すたすたと歩き、地下鉄を乗り継いで目的地に向かう。

『喫茶軽食・スタンダード』という看板を見つける。

 簡素な白い壁のこじんまりとした喫茶店だ。なるほど、いい雰囲気だし、妙なところで目ざといカイトが気に入るのも納得である。

 既にクローズとの札がかかっているが明かりが煌々と漏れている。

 中から喋り声が聞こえてきた。

 甲高いような低いような声変わりの途中特有の男子の声だ。

 カイトのそれだとすぐにわかる。本当に入り浸っているらしい、随分店の人と懇意になっていると見える。

 ふと、カイトのほかにもう一人、聞き覚えのなる声が聞こえた気がした。

「……」

 どうしてだろう、なんだか、懐かしいような声が聞こえる。

 そんな訳ないのに。

 記憶の片隅をくすぐられるような。

 頭を傾げる。


 だれか古い知り合いでも働いているんだろうか?

 そんな浮かんではすぐに消える考えがよぎる。

 まあ、いいか。

 閉ざされたはずの扉を開く。








「お、リラちゃん。待ってたよ。………どうかしたん?」


 従弟の少年の声が遠い。


「……空白さんも、そんな鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔して」


 空白、そう、空白燈。

 彼の名前は空白燈。ずっとむかし、好きだった人。


 いつかの日を覚えている。

 白いカーテン越し、初めて彼と目があった日を。


 いつか出逢い、別れた彼が目の前にいた。

 

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