會野ミサキ編 第1幕 その3
秋の夕暮れがウナギの寝床に差し込む。
晩鐘が聞こえる。
雨の日から数週間。
秋の気配は深まるばかり。
部室には二人。空白燈と會野ミサキ。
「センパイ。何してるんです?」
「うん。宿題」
「そうですか」
「うん。會野は、なによんでるの?」
「小説です」
「……いや、それは見ればわかるよ。オレが聞いたのはね……」
「『テン・カウント』です」
「……知らない小説だ。どんな話なの?」
「…………ボクシング小説です。映画の原作でもあります」
「へぇ。そうなんだ」
随分と二人でいる空間になじんできた。
最初はこの空間を果たしてどう扱ったものかと思案していた燈ではあるけれど、今や便利に使える空間として割と重宝している。
ミサキとの会話も他愛がなかったり、いきなり途切れたりするようなものになりがちだが概ね慣れてきていた。
案外、ノリで入部したことがいい方向に作用していると――。
「ちーっす! ミサキちゃんに空白パイセン! 元気っすか―⁉」
突然がらりと扉が開いた。
部室に乱入していたのはミサキの友人で文芸部の幽霊部員。海野ヒバリである。
「どうしたのヒバリちゃん? 最近はもっぱら忙しく動き回っていたみたいだけど? 暇になった?」
「いやこれが全然なんよ! で、さっそく本題に入らせてもらうんだけど、そんなワタシが今日部室に顔を出した理由は――」
※
「劇団のお手伝い、ですか?」
「ああ。なんでも海野が今バイトしてる地元の小劇団に役所からPR動画の作成依頼が来ててんやわんやしているらしい。それで人手が足りないんだと」
「ヒバリちゃんのことなら知ってますよ。色々と好奇心旺盛で猪突猛進、面白い
「その小劇団っていうのが地元の年配者の寄り合いみたいなもんでね、あんまり伝手や技術がないんだ。そこにあの海野がすー、っと効いて実質中核メンバーみたいになってるらしい。オレの前のバイト先でも客のくせに店員と仲良くなってたし、もとよりそういう気質なのだろうな」
「なるほど、理解できる話です。ヒバリちゃんが学外で色々面白いことしているのは生徒会では知れている話ですし」
「やっぱり有名人なんだ、あいつ」
「ええまあ、相応に」
そんな会話をしながら、生塩リラと燈は階段を上る。
「それで? 空白くんは協力するんですか?」
「うん。まあそのつもり」
「いいと思いますよ。というかですね、生徒会としてはこれを実績として部の存続理由につなげることを推奨しますよ」
「え? できるの? そんなこと」
「というよりしてもらいたいですよ。実績の亡い部活動は打ち切られるが定めなんですから」
「いや。『文芸』なのに演劇のことを実績にするというのはこはいかに」
「
「うーむ……」
「あら、少しは喜んでくれるかと思っていたのに、なんですかその微妙な反応は? もしかして、なにかほかに懸念点でも?」
「…………」
※
渋い顔をしていた。
とても渋い顔をしていた。
コールタールのように黒く濃く抽出されたコーヒーを飲んだかのような渋い貌である。
「そんなに乗り気になれない?」
「なれないです」
「どうして?」
「それは……」
ミサキは言葉を噤む。その表情には只ならない葛藤が見えかくれしていた。
それは単に、面倒だとか恥ずかしいだとかではない。なにかもっと重大な色が見えるような……。
「演劇にいい思い出がないとか?」
「……ッ」
てきとうなことを言ったつもりだったが図星をついたようだった。
「そうなん?」
「………」
こくり、と小さく、ミサキは頷いた。
「そう、か……」
事情があるようだ。
無理強いは良くない。
「うん。まあ嫌なら無理強いはしないよ」
そういってミサキの隣に座る燈。
「……センパイ、ナチュナルに距離が近いです」
「あ、ごめん。嫌だった?」
「別に、…………どうでもいいですけど」
そういってミサキは俯く。
彼女がどんな顔をしているのか、良く見えなくなってしまった。
「ヒバリの頼み、オレは聞こうと思っているんだよね」
「……そうですか」
「うん。単純に興味があるし、部活の活動実績になるしね」
「そうですね……」
声のトーンでは感情が読みづらい。
そう燈は思う。
ミサキのことを――自分のすぐ隣に俯いている少女のことをもっと知りたいと、そう思うのに。
どうにも、ね。
「…………うん。わかった」
「なんです? いきなり」
「オレ、ヒバリの頼みを聴くことにするよ……」
「……そうですか」
「うん。でもこれは俺一人だけね。一応部の実績ということにはしておくけれど、単純にソレはオレが個人的に興味があるから協力しているのについでに部にも貢献できるという一石二鳥で使わないともったいない事案であるからして―――」
「センパイがアタシに気をつかっているのはわかりました」
くすりと、ミサキが
「いや、うん。別にそれはそれとしてね………」
燈の言葉が途切れる。
彼の制服の裾をちょこんとつかむ人の指があったからだ。
「気が向いたら――あくまでそうなったらですけど――わたしも、気が向いたら、センパイに合流しますよ」
照れくさそうに言う彼女にこちらの頬が紅潮していくのを感じている。
「うん」
もう少し続けたい言葉があったような気がするが今はこれでいいと感じる。
夕暮れが窓辺から差し込んで世界がオレンジに染まったようだった。
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