會野ミサキ編 第1幕 その2

「はい。では確かに受け取りました」

 涼やかな声音。生塩リラの声だ。

 彼女の手では薄っぺらい入部届の用紙が廊下から吹く隙間風に揺れている。

 秋と呼ぶにはいささか肌寒すぎる気がする。

 そんな学校の廊下。

「しかし意外でした。空白くんは永遠のフリー枠だと思っていたので」

「そんな人を割と使えるNPCみたいに」

「ふふ、ごめんなさい。でもちょっと残念です。便利なNPCみたいにあなたが使えなくなることが」

「別に、暇だったら手伝うよ。大して忙しい部活動ってわけじゃないんだし」

「あら、それは嬉しいですね。ですがそうなるとさらに不思議です。大して忙しいわけでもない部活動にどうして今になって?」

「べつに……」

 燈は少しばかり言葉を濁す。どうしてと聞かれてもそれらしい答えが存在しない。

 秋空に揺蕩う雲がたまたま魚の形をしていたのと似たようなニュアンスの話なのだ。

 そんなことをリラに伝えると、

「え~なんですか~、それ~」

 と愉快そうに笑われた。

「……つまりは気まぐれという話だよ」

 燈はそんなふうに結論づけた。

 そうとしか言いようがなかった。

 

 多分。それ以外には、理由なんて、ない。



 秋の斜陽が窓ガラスから差し込む。

 眠たげに目元を擦る、少女の姿が映る。

 聞こえないはずの晩鐘がなるような。

 小さなへやのなか。

 會野ミサキの姿はまるで―――。


「――センパイ?」

「―――。あ、」

 ふと、我に返る。

「ぼーっとしてないで、早く扉、閉めてください。寒いです」

「うん。ごめん」

「ん」

 ミサキはそんな風に生返事を返す。

 相槌をうちつつ、てきとうに空いたスペースに燈は腰を掛けた。

「今日はヒバリさんは来てないの?」

「……なかいいんですか? ヒバリと」

「ん~、前にバイト先で知り合ったぐらいで昨日会ったのはずいぶん久しぶりのことだったよ」

「ふ~ん。そうですか……」

 ミサキは窓辺で本を読んでいる。文庫本だ。ぺらぺらとスピィディーにページがめくられていく。

 速読が得意なのか、単に読書家ゆえの慣れなのか。

 なんとなく後者な気がした。なんとなく。


 しばしの沈黙が小さな部室ものおきの中に響く。

 はたと、ミサキはページをめくる手を止める。

 ペラペラの一ページが中途半端な虚空で滞空している。

「………ヒバリは、今日もきっとどこかで忙しくしてます。もともと活動的な人ですから……、昨日この部室にいたのはたまたまです」

「そうなんだ」

「はい」

 また。会話が途切れる。

 燈はこういう途切れた会話が苦手だ。

 何か言葉を発して沈黙を破りたくなる。

 だというのに、目の前の一つ下の少女の沈黙を破りたくない自分がいることに燈は自分で驚いていた。

 不思議だ。

 夕景に照らされるミサキはしかして、手を中途半端なところで停止させたまま、しばらく動かないでいた。

 脳内で言葉を纏めているのだ。

「……ヒバリは……」

 そうしてまた、ぽつぽつと言の葉が紡がれていく。

「入学したとき、アタシに初めて声をかけてくれた人です。

 故あって東京から越してきたばかりのアタシは友達なんてなかなかできなくて、だいぶ苦しい思いをしていたんです。

 でもヒバリは誰にでも優しくて……。

 アタシにも声をかけてくれて。

 学外で色々活動するための学校へのお伺いとして部活動に所属しておきたいらしく、存在はこだけあって部員なかみがない文芸部に目を付けたんです。

 どこにも居場所のないアタシを部員として誘ってくれました」

「そうなんだ。やっぱり、いいやつなんだね、彼女は」

「はい。まあ、ちゃっかりしているというか、ちょっとどうかとおもうところも多々あるんですが概ねそうですね」

「実体として君一人の部活になっているのはそうだしね」

「はい。でも、これはこれで気楽でいいです。友達がいないのはいやだけど、一人でいるのが好きなので」

「難儀な性質だね」

「そう……かもしれないです、ね。難儀です」

 一度会話が始まれば、あとは水が流れるように、するすると他愛もない話が続いていく。

 特に中身にある話ではない。

 趣味だとか(燈には特になく、精々たまに思い出したかのようにバイト戦士になるくらい。ミサキは読書家でもある)、最近はやりの漫画アニメやバラエティのことだとか、そんなものぐらいだ。

 それは穏やかで、緩やか。ミサキはあまり口が回るほうではないので、必然、ゆったりとしたテンポの会話になるのだが、なんだかそれが心地よく燈には感じられた。

 ふと、ぽつぽつと叩くような音が鳴った。

 窓の外を覗き見れば雨が降ってきていた。

「……少し、話しすぎました」

「傘、持ってきてる?」

「いいえ。センパイはどうですか」

「オレは持ってきてるよ、折り畳みのやつ。常備してる」

「用意周到ですね」

「うん」

 そんな風に駄弁りながら、二人は部室を後にする。

 部室のカギを返しに行くついでに傘をミサキの傘を借りればいい。



 結論から言うと傘は借りられなかった。

 みんな借りてってしまったものだから、残っていなかったのだ。

 結果として。

「……誰かに噂されたらいやなんですけど」

「もう帰っているか、他に用事があってこちらに目線を向けない人ばかりだから大丈夫だと思うよ」

「いや、そうですけど……」

 ぶつくさと何やら文句を言っているらしいミサキ。

 残念ながら小言の類は雨音にかき消されて消えてしまった。

 折り畳み傘を相合傘で差しているいるのだから距離は近いはずなのに、不思議だね。

 結果として二人は相合傘で帰ることになった。

 ミサキとしては不満がある風ではあるが、雨脚が強まり、曇天が陽光を強く遮る夕暮れ時。秋はつるべ落としというだけあってもうずいぶん暗くなってきている。

 もとより燈としてはミサキを送る気でいたので特に問題は感じていなかった。

 もう少し、話していたい気分になっていたというのもないではない。

「センパイ、濡れてますよ」

「雨だからね」

「アタシに傘を差しているからですよ」

「そうかな?」

「そうです……なんですかそのリアクション」

「ははは」

 他愛もない時間だ。

 暗くなりつつある夕暮れ。雨脚は強くなるばかり。

 雨の匂いは心地いものだと感じる。


 ふと、目の前にこちらへ歩いてくる人影が見える。

 シルエットから老婆のようである。

 大きなこうもり傘を引っ提げて、その人はこちらへ向かってきている。

「あ、おばあちゃん」

「あの人が?」

「はい」

 そういってミサキは手を振る。

 老人はゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。

「ミサキちゃん、傘持って行かなかったでしょう? 迎えに来たわよ……彼氏さん?」

「そうです」

「ちがうよ。センパイもアホみたいな嘘つかないでください」

「すみません。只の先輩です」

「あらら残念。こんなにハンサムな方なのに」

「おばあさまもお綺麗ですよ」

「あら嬉しい、彼氏になってもらおうかしら」

「誰がおばあさまだ。おばあちゃんも変なボケに乗っからないでよ」

 溜息を吐くミサキ。吐息が微かに白く染まる。

「ほら、もう帰ろうよおばあちゃん。空白からしろセンパイもここまで送ってくれてありがとうございます」

「ん。また、明日ね」

 彼の傘の下から祖母の傘の下へ、ミサキは小走りで移る。

 小さく燈は手を振った。

 ミサキは小さく会釈をすると祖母とともに暗い雨の中へ後姿を決していった。

 やがて燈も振り返り、帰路へと歩き出す。

 ふと体のほとんどが濡れてしまっていることに気づいた。

 傘の面積を最近知り合った後輩へ渡しすぎてしまったらしい。

 ふ、と微笑ってしまう。

「いや、冷えるな。もう秋だ」

 体を小さく地締めながら燈もまた帰路に就く。

 強い雨が降りしきる中、一人で歩く時間がどうもなんだか冷える。



「ミサキちゃん、やっぱりあの人って彼氏さん……」

「違うって言ってる」

「でも、あの先輩さん。脈はありそうにおばあちゃんは見えるよ」

「……ないって。ないない」

 雨の中、祖母の傍らで歩くミサキ。

 うんざりした顔を見せるミサキ。とはいえ彼女と祖母――會野ナギサとの距離は離れずに近い当たり、幼子の戯れの類なのはみるにあきらかだ。

「センパイはただのセンパイ。同じ部活になったし、たしかにまあ悪いひとじゃないけど、それだけ」

「そうなの。でもうれしいわ、ミサキちゃんにも仲良くしてる人がいたのね。ヒバリちゃんとも仲良くできているのかしら?」

 ぽんと話が飛ぶ。祖母は、というか老人というのはこういうところがあるなとミサキは思う。

「ヒバリちゃんは相変わらず、興味を持ったことにはなんにでも首を突っ込む性質だから忙しくしてる。でもメールをしたら返してくれるし、電話もできるから仲は、まだいいままだと思う」

「そう……良かった」

 心から安堵したように言葉を溢す祖母に、どこか胸の奥が締め付けられるような心地をミサキは感じていた。

「ねえ、おばあちゃん」

「なぁに?」

「お父さん、何か言ってた?」

「…………、もうすぐ正式に離婚が成立するんだってねぇ。そういってたよ」

「そう」

 ザザ鳴りの雨だ。

 対して、自身の子ことが渇いているのをミサキは知っている。

「ミサキちゃんは、居たいだけお婆ちゃんのことにいていいんだよ」

「うん」

 首肯した。

 もとよりそのつもりだった。少なくとも、大人という奴になるまでは。

 同時にもうまともに両親と会話することはないのだろうと思う。

 それを寂しいとか哀しいとか感じる段階はずいぶんと前に通り過ぎてしまったように思える。

 そんなことをミサキは思うのだ。

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