初めましての貴方と

しらはせ

初めまして

『もしも過去に戻れるなら、君は一体何をしたい?』


 机の端に書かれた奇妙な問いかけに私は返事をしてみることにした。興味本位でこの行動には全く意味がない。ただの暇つぶしだ。


『私はこの世に生まれなかった事にしたいです。』


 一体どこまで戻れるのか知らないが、生まれる前の段階に仮に戻れたなら私はそうしたい。この世に存在しないことを強く望むのだ。


 この謎の机文通は三ヶ月の間続いた。

 気づけば返事が書かれているので私も書く。私が書くと相手も書く。ただその繰り返しだった。


 顔も名前も性別も分からない。ここに通っていた元生徒なのか、あるいは教師なのかすら判断することはできない。でもお互いそれでよかった。

満足していた。



 *

『ねぇ、私たち一度会って見ませんか?君とならこのくだらない日常に花が咲きそうだ。蒼い春がやってきそう。』


 蒼い、青いではなく蒼いなのか。相手の誤字に首を突っ込むほど面倒な人間でもない。言葉なんて伝わればなんだっていいのだから。

 相手は俗に言う、友達と過ごす青春、に強い憧れを持っているのだろう。残念ながら私はそんなことにそもそも興味を持っていないのだ。


『申し訳ありませんが、私は青春などに興味を持っていません。筆談もこれで最後にしましょう。さようなら』


 謎の人物、仮にAさんとこの人を名付けることにする。

 Aさんとの机文通は良い暇つぶしになった。放課後にここ、もう使われていない廃校舎に訪れ私は絵を描いていた。

 Aさんがここに最初の問いかけを書くまでは……。


 まばらに並んだ教室の机。一番窓際にある椅子に腰掛ける。机にスケッチブックを立て掛け、沈みゆく太陽が作り出す街の影をそれに写していく。単純な作業だ。


 毎日毎日同じことの繰り返し。楽しくも面白くもない。逆に苦しくもつらくもない。

 ただ無意味なことを繰り返す人間を、ここに今表しているような気がして、それが非常に滑稽に感じることもある。


 楽しくも面白くもない。だが私は他の何をすることよりもそれに満足するのだ。

 この作業こそが、まるで生まれてきたことの無意味さを証明しているように感じるからだろう。

 つまり私の生きる意味は、生きることの無意味さを証明することにあるのだ。


 ある日私は気が付く、机に書かれた文字に。それがAさんとの机文通の始まりだった。

 絵を描く以外の理由を私はここに見出してしまった。


 私はそれから自然と絵を描かなくなった。彼が私の事に気付いた時点で私の無意味の証明が意味をなさなくなってしまったように感じるから。

 あるいはこの筆談のためだけに生まれてきたように感じさせられたから。


 カラカラカラッと乾いたような音を立ててドアが開いた。

 繰り返し繰り返し何十回も何百回、何千回と開けられてきた教室のドアが開く音だった。もはや存在意義など無くなってしまったそれが、一つの力によって息を吹き返したような、少し陽気で間抜けな音。


 ドアの向こうにはスーツを着た男性がいた。くたびれたシャツによれたネクタイ、如何にも仕事が出来なさそうな社会人。

 意外にも髪は整えられていて、容姿はまぁまぁであった。良くも悪くも普通、それ以上でも以下でもない。服装のだらしなさも一般的、どこにでも居そうだ。


 それが彼の第一印象。


 横目に彼を観察していると、彼の方から声を掛けてきた。


「君ですか?いつも返事を書いてくれていたのは」


 教室にそっと入ってきて、私にどんどん近づいてくる。

私は慌てて、今日書いた返事を左手で擦って消してしまった。

 理由なんか誰にでも分かる。私は今日の返事で彼を傷つける事を知っていたから。


 ネットなんかではよくある事だ。お互い相手の名前も顔も知らないから、平気で人を傷つけるような発言をすることができる。

 人の傷ついた表情を見ることで、自分自身も傷つく事を私は知っている。どうしようもない気持ちになることを私は知っている。


 彼が机に視線を落とした。


「今日はまだ書いてくれていないんですね。でも、どうしようかな。もう会ってしまいましたね。」


 目線を合わせることができない。この状況ということもあるが、人と話すことは元々苦手だ。


「緊張していますか?別に何かしようと思うわけじゃないんです。ただ話がしたいだけなんですよ。」


 この日、私はAさんの顔を知った。

 名前、性別、この学校の元生徒だということも。何の仕事をしているのか、どこに住んでいるのか。

 あの日はたまたま定時で上がれて、そのままここに来たそうだ。


 それから私たちは頻繁に会うようになった。

 彼の家で寝泊まりすることも多く、次第に学校終わりに彼の家に帰ることが日常になっていった。


 私の家庭環境はあまりよくない方であり、私が家に居ようと居なかろうと大した問題はなかったし、彼の家にいる方が居心地が良かったから。


 一緒に暮らすようになって半年ほど、小さな違和感が私の中に降り積もっていった。

Aさんは徐々に忘れっぽくなっていったのだ。頼んだことができていない事が増えた。洗濯や皿洗い、最初は本当に小さな事だったけれど。

 

 その影響でか塞ぎ込むことも多くなり、不安をこぼすこともあった。

 あの時の私は無知で、特に心配することはなかった。物忘れなんて誰にでもある事だから。


 同じ事を何度も何度も聞いてくるようになった。


 機嫌の悪い日が増えた。


 細かいことを挙げていけばもっとたくさん出てくる。それでも私は分からないふりをした、何も知らないふりをした。

 でもそれをAさんは許してはくれなかった。


「若年性認知症と呼ばれる病気だと診断された」


 Aさんがそんな事を言ってきた。調べなくても大体分かる。若くしてなる認知症なのだろう。現在も治療法は見つかっていない。


 時間と共に彼は色々なことを忘れていった。

 私のことも当然忘れられた。彼は家に帰ってくると、警察を呼ぶようになった。


「他人が自分の家に不法侵入している」と。


 警察に事情を説明したが、あまり好ましい反応はしていなかった。それから私はAさんの家に行くことはなくなった。


 私は生まれてきたことの無意味さを、生きることの意味を教えてくれた彼から教わった。結局人間は手に入れてきたことの全てを失うように設定されているのだ。



 *

 彼と会わなくなって一ヶ月が経とうとしていた。

 彼は完全に私のことを忘れていることだろう。これから何度会ったって、どれだけ長い時間を共に過ごしたって、彼と私はいつだって初めましてなのだ。


 私は久しぶりに彼との始まりの場所、廃校舎に足を運んだ。

 埃っぽいが、不良たちの溜まり場にもなっていない。少し古いが落ち着きのある校舎。思い出の机。

 そこに書き記された文字は、誰にも消されてはいなかった。消されていない代わりに、新たなメッセージがそこには書き記されていた。


『ねぇ、私たち一度会って見ませんか?君とならこのくだらない日常に花が咲きそうだ。蒼い春がやってきそう。』


『会うのはやっぱり嫌だよね。またお話したいです。』


『暇な時でいい。気づいた時に返事をしてくれるだけでいいです。』


『嫌なことしてしまったかな?少し寂しいです。』


 似たような文言が何個も何個も残されていた。

 そうか、彼はこの頃に戻ってしまったんだ。それなら私のことを知っているはずもない。


『私も貴方に会いたいです。』


 たった一言、でもそれだけで十分だ。それから私は彼がここに現れるまでひたすら待った。現れる保証もなければ、会話ができるのかも分からない。


 それでも私が待ち続けるのは、単純に私が暇だから。

 私の人生から彼を取ってしまったら、私が生まれてきたことは本当に何の意味もなくなってしまう気がした。


 あの日と同じ、陽気で間抜けな音を立てながら教室のドアが開いた。

真っ暗になりつつある教室の中、彼が入ってくる。


「君ですか?いつも返事を書いてくれていたのは」


 あの時と全く同じ言葉だった。


「そうです。貴方に会うためにここで待っていました。」


 彼がどんな表情を浮かべているのかは分からない。


「私も貴方とならくだらない日常に花が咲きそうだと思いまして。」



 *

 私は今でも彼との机文通を続けている。

 彼が私を忘れないなんて奇跡が起こるはずもなく、彼は翌日には私のことを完全に忘れてしまった。


 それでも机文通のことを彼が忘れたことは一度もない。診断されて一年経った今でも、彼は欠かさずこの廃校舎を訪れている。


『小学生の頃に戻れるなら何をしたい?』


『貴方ともっと早く出逢いたいです。だから貴方のことを探しに行きます。』


 返答に加えて私は一つの質問を彼にしてみることにした。あの日会った日からずっと気になっていたこと。


『私からの質問、どうして蒼い春なんですか?』


『それはね、僕が青色より蒼色の方が好きだから。青より主張が激しくなくていいよね。でも漢字も好きなんだ。涼しそうな様子が伝わってくるでしょう。』


 几帳面に書かれた文字。私と違って下手くそな字ではない。


 蒼、この文字がずっと嫌いだった。暗くて息苦しくなるような漢字だと思っていた。似合ってないって散々言われた。


 でも貴方はそんな風に思ってくれていたんですね。


 生きることに意味があると思えない。でも同時に生きていくことの価値を捨て切ることもできない。

 私は何をやっても中途半端なのだ。


 この世界の何かに期待して、結局駄目だったって勝手に裏切られた気分になって、涙一つも零れ落ちない日々に貴方は現れた。


 貴方は私に蒼い春の訪れを知らせてくれた。


 だから私は貴方との未来を諦める気もありません。貴方に出会わなければよかったなんて思いません。

 ここで絵を描いていた日々も、机文通を続けた三ヶ月間も、決して無駄ではありませんでした。

 でもどうしようもない悲しみに包まれる夜があります。

私は…、私は


カラカラカラッ


「君ですか?いつも返事を書いてくれていたのは」


「はい、初めましてですね。」


 初めましての貴方とこれからも生きていこうと思います。

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