29 黎姫先生

 初めて訪れた精神科の病院は、不思議なところだと思いました。待合室の患者たちは皆静かで、とても精神を患っているとは思えないほどごく普通に見える人々でした。

 オルゴールの曲が流れていました。時折受付の職員たちが業務上の会話をする以外は、誰も喋ることがありませんでした。

 僕は兄と並んでソファに座りました。兄は雑誌を取ってきて、ペラペラとめくりはじめました。僕も本棚に行き、適当な文庫本を読み始めました。

 予約の時間から一時間は経ったでしょうか。ようやく僕の名前が呼ばれました。打ち合わせ通りに事は進みました。

 医師は五十代くらいの男性でした。少しふくよかで、安心感のある人でした。

 主に兄が話しました。嘘と真実と誇張を混ぜて。うつ状態だと言われました。睡眠薬と、精神安定剤が処方されました。


「良かったな、瞬。これで眠れるぞ」

「だといいけど」


 確かに薬はよく効きました。梓が出てくることはめっきり減り、学業もアルバイトも何とかこなせました。

 それでも、一人になると梓が見えました。どうして止めてくれなかったの。どうして。どうして。彼女は僕を責めました。

 せめてもう一人、頼れる相手を見つけなければならない。もちろんルリちゃんでした。彼女には、知らない女の亡霊が出てくるのだと説明しました。


「めっちゃヤバいやん! 心霊スポットでも行った?」

「いや、そういうわけじゃないんだ……」


 ルリちゃんは、よく当たる占いの先生を紹介してくれました。今もご活動されているようで、一部では有名だそうです。黎姫れいき先生といいました。

 その人は、巫女や神官、将軍といった数々の前世を持つとのことでした。今の生では家庭に恵まれず、風俗嬢を経た後、自分の霊力を他者に分け与えるため、占い師になったといいます。

 黎姫先生は、オンラインサロンを持っていました。ルリちゃんはそこの会員でした。月額一万円は学生の僕にとっては痛手でしたが、そこに入ってみることにしました。

 会員は女性が多かったです。お金や夫婦関係、不倫の相談も請け負っているようでした。初回のセッションは特別に一万円で受けられるということで、僕は黎姫先生に話をしてみることにしました。


「こんにちは、瞬さん」


 画面の向こうの黎姫先生は、茶色いウェーブヘアーを長く垂らし、濃いメイクをした綺麗な女性でした。僕は夢の話をしました。


「その女性とあなたは、前世に繋がりがありますね。肉親か、恋人だったのでしょう。その前世であなたは彼女を殺しました。仕方の無い理由でしたが、その後悔が今でも残っているのです」


 前世でも僕は梓を殺していた。それを言われて動揺しました。黎姫先生は続けました。


「でも、大丈夫。今世でも必ず巡り合えます」

「……既に亡くなっている場合は?」

「人は何度でも生まれ変わります。今は魂がさ迷っているとしても、しかるべき肉体を見つけ、そこに宿るでしょう。もしかすると、あなたの娘として生まれてくるかもしれません」


 それは小さな希望になりました。僕はそれまで、子供が欲しいだなんて思ったことはありませんでしたが、梓が生まれてきてくれるのなら、誰かともうけたいと強く思いました。


「ところで、瞬さんには恋人がいますか?」

「はい、その……」


 黎姫先生なら信用できる。僕は兄のことを話しました。


「それではあなたは同性愛者なのですか?」

「いえ、元々は違います。兄は特別なんです」

「そうですか。一度、直接お会いしてあなたの過去生を占いたいです。学生さんでしょう。一万円でいいです。こちらまで来れますか?」


 黎姫先生の住んでいるところは、電車を乗り継げば行ける距離でした。僕は会う約束を取り付けました。これで梓から解放される。そう思い込んでいました。

 兄に事前に言えば、止められるに決まっていました。神の存在すら信じていない人です。後で本当のことを話すことにして、こっそりと黎姫先生のところへ行きました。

 黎姫先生の住む家は、案外小ぢんまりとした一軒家でした。玄関に入ると、水晶や龍の掛け軸が飾られていました。

 実際に会った黎姫先生は、画面よりも老けていると感じましたが、美しいことには変わりなかったです。僕は一万円を支払いました。

 リラックスする必要があるとのことで、僕は寝室のベッドに寝かされました。お香の匂いがしていました。

 占いが始まりました。黎姫先生と僕は、過去生で巫女の姉妹だったそうです。姉妹なのに、愛し合ってしまい、心中したとのこと。それで今生でも惹かれ合ったのだと説明されました。


「子供を作りましょう。あなたとわたしの子供を……」


 黎姫先生は僕の服を脱がせてきました。不思議と身体が動きませんでした。頭はぼんやりしていて、彼女が何をしているのかハッキリとはわかりませんでした。

 いつの間にか、僕は元通り服を着せられていて、下半身に感覚だけが残っていました。

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