第3話 慣れと思い出
新しいことをやり始めると、以前までやっていたことを忘れてしまったりする。
新しいことに慣れてしまって、新しいことが普通のことになってしまうのだ。
ちなみに、今がその状態である。
俺が今まで愛子と、どんな会話をしていたのか忘れてしまったのだ。
そもそも、俺は自分の思っていることを伝えないで、どうやって会話を続けていたのだろう。今となってはもう、そんなこと不可能なんじゃないのか、という気がしている。
やっぱり、俺はもう新しい自分に慣れてしまったのだろう。
新しいことを始めて一時間ちょっとしか経っていないのに、もう慣れてしまうなんて人間の適応力は本当にすごいんだなあ、と思う。
まあ、そんなことを考えていても、今の無言の状態を解消する手助けにはならないのだけど。
そう、さっきから俺と愛子の間には会話がない。
二人とも喋らなくなってから、そろそろ十分が経とうとしている。
というのも、俺が気になったことを伝えていたら、それが愛子からするとしつこかったらしく、愛子の機嫌が悪くなってしまったのだ。
実際、愛子はさっきからスマホを見ることもなく、壁にかかっている時計をじっと見つめている。
見た目には怒っているという様子が出ていないが、オーラが何だか恐ろしい。確実に「何か」があふれ出ている。
そうなると、俺ももう伝えたいことがあっても、またしつこいと言われ、怒られるんじゃないかと思って、話を切り出せなくなる。
そんな事情があって、この生物室は静寂に包まれていた。
もちろん悪いのは俺なのだから、とっとと謝ってしまえばいいのかもしれない。
でも、どう言えば良いのか、わからない。
どうやら俺はしつこいらしいので、それでまた怒らせてしまうかもしれない、という恐れがあって一歩踏み出せない。
今までの俺だったら、どうやって話しかけていただろうか。
まあ、今までの俺だったらこんな状態にはならなかったかもしれないな。
思い返してみても、愛子と喧嘩をしたという記憶は見当たらない。
今までは、喧嘩ができるような関係ではなかったのかもしれない。別に、仲が良いから喧嘩をして、仲が良くないから喧嘩をしないというわけでもないと思うけど。
でも、喧嘩ができるようになったというのは今までの関係よりは前に方向に進んでいるのではないかと思う。
少しずつ、心が開けてきている証拠のような気がするからだ。
でも、喧嘩をして心が開きかけてきたとしても、仲直りができなければ意味がない。
それが問題なんだよなあ。
う~ん、いきなり謝罪から入るっていうのは、ちょっと気持ち悪い気がする。何だか馴れ馴れしい気がして気が引ける。
いや~、ごめんごめん。俺が悪かったわ~、なんていうのは軽いというか、ウザいというか、チャラいというか、そういう気がして嫌だ。
だからまずは、ちょっとした会話から入るべきだと思うのだ。
しかし今のところ話題がない。さっきからキョロキョロと周囲を見回して、話題になるものを探しているのだが、ちょうどいいものが見当たらない。
あんまりキョロキョロしすぎて、話しかけられ待ちと思われるのも嫌なので、あんまり大きくは見ることができない。
困ったところで愛子に視線を向けてみると、目は時計に向いたまま筆箱の中をあさっていた。
机にはいつの間にかノートが置かれているので、俺のことを放っておいて勉強を始める気なのかもしれない。
しかし目は時計の方に固定しているのが滅茶苦茶怖い。時計を見たままでは勉強することができない気もするが、時計を見ることは一体どんな意味を持っているのだろうか。
と、そこでガッシャ―ンという音が部屋中に響いた。
愛子が筆箱を床に落としてしまったのだ。
まあ、目を向けずに筆箱の中をいじっていたのだから、当然と言える。
筆箱を落としてしまった当の愛子は驚いてしまったのか、地面の筆箱を見つめて固まっていた。
俺もちょっと驚いたが、すぐに今の事情を思い出し、散らばった文房具を拾うべく席を立った。
今の事態は愛子からしたら筆箱を落とした不幸な出来事になるかもしれないが、俺にとっては大チャンスだった。
これをきっかけにして、会話を広げることができるからだ。
愛子には申し訳ないが、俺にとってのラッキーチャンスだったのだ!
悪いことが続いた後にはやっぱりいい出来事が待っているものだ。神様には感謝しなければならないな、と思った。
しかし神様が味方してくれるのも一瞬だけ、という当たり前のことを忘れていた俺のもとに不幸の悪魔が降り立った。
ガシャーンという直前に聞いたのと同じ音がしたのだ。
これは、俺が机に置いていた筆箱が落ちた音だった。席を立ったタイミングで、間違えて落としてしまったようだ。
俺は慌てて自分の文房具を拾い集めた。
愛子の文房具を拾わなければならなかったし、俺の文房具を拾わせるのを手伝わせるのは申し訳ない気がした。
俺が完全に悪い状態で迷惑をかけてしまうのは嫌だった。
俺はパパっと散らばった文房具を回収し、筆箱の中に放り込んだ。
そして愛子の文房具も拾おうと反対側に回ろうとしたが、愛子はすでに文房具を拾い終えた様子だった。
「はい、これ。健吾が落としたやつ、こっち側まで転がってたよ」
それどころか、愛子はそう言って、俺にオレンジ色のボールペンを差し出してきた。
拾い集めるのに夢中で気づかなかったが、見落としがあったようだ。
「ごめん、ありがとう」
俺はそう言って、愛子からボールペンを受け取った。愛子が特に丁寧にそのボールペンを渡してくれた。
このボールペン何かあったけな、と考えていると愛子が話しかけてきた。
「それにしても、二人とも筆箱を落とすなんて、滑稽な姿だっただろうね」
愛子は笑いながらそんなことを言った。その愛子の様子が意外で、反応するのに一拍遅れてしまう。
「まあ、そうだろうなあ。俺が拾いに行こうとしたら逆に自分のを落としちゃったんだもん」
「あっ、拾おうとしてくれてたんだ。私はてっきり筆箱が落ちた大きい音に動揺して自分のも落としたのかと思った」
「ビビりではあるけど、それはタイプが違うなあ」
「ビビりなのは認めるんだあ。まあ、一歩足りないもんね」
「そうそう、もうわかってるよ」
部屋にはいつの間にかさっきの雰囲気が戻っていた。
結局愛子に話しかけてもらって元の空気に戻してもらって、俺は本当に一歩足りないやつなんだなと思った。俺はこれから、それが否定できなくなってしまった。
でも、失敗は生かさないといけないと思うので、俺はさらに言葉を続ける。
「さっきは悪かったよ、しつこくて。これから本当に気を付けます」
「それはもういいよ。今の事故も面白かったし、気にしてなかったことにしてあげる。最初から健吾の勘違いで、私は別に機嫌が悪くなかったってことでいいよ」
「その言葉が出るってことは、絶対機嫌悪かったじゃん……」
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