第74話 心の全て
午後十時二十分。颯太は飛鳥の家の前に立っている。飛鳥の家は洋風な外観を持つアパートの三階の角部屋にあった。307と書かれた横には有馬と書かれた小さい表札が掛けられていた。
十八時に会社から出てくると思われたターゲットの女性は、結局二十一時過ぎまで出てこなかった。飛鳥がいれば探知スキルを使って社内の様子を探り、ターゲットが出てきそうになるまで近くのカフェでのんびりできる。しかし、探知スキルを持たない颯太だけではひたすら会社の出口を監視し続けることしかできなかった。
三時間にわたる張り込みと、一時間にわたる尾行と調査で、少し疲れた颯太であったが、今はそんなことを気にしてられない。目の前の扉の奥にいる女性のことで頭はいっぱいだった。
いきなり、チャイムを鳴らすのはどうかと思い、颯太は電話をかけてみる。しかし、何度かけても繋がらない。今までにこんなことは一度もなく、颯太は心配になった。
(社長たちの話だと、相当落ち込んでるみたいだ。弁当を断ったのは俺も最低だった。会ったらすぐに謝ろう)
颯太は社長たちの話を聞いてから飛鳥が心配でならなかった。一番飛鳥をよく知る二人があそこまで心配していたことから深刻さは伝わってきたいた。
電話が繋がらなかったため、颯太は仕方がなくインターホンを鳴らそうとする。しかし、あることが思い浮かんで、ぎりぎりのところで指を止める。
(有希さん、言ってたな。飛鳥さんは面と向かって嘘がつける人間じゃないって。俺のことが好きなのは本当だって……)
有希の言葉を思い出して、颯太の心臓は鼓動を早める。今、思い出して見ると、心当たりが全くないわけではなかった。
それは、悪人たちから助け出した後から始まった自分を見つめるあの表情……。
頬を赤くして、とろんとした目でこちらを見つめてくるようになったこと……。そして、同じく助け出した後から嬉しそうに何度も抱きついてくるようになったこと……。
先週告白された時は、全く信じられず拒絶してしまったが、飛鳥の気持ちがひょっとしてしたら本気だったんじゃないかという考えが浮かんできて、颯太は身震いする。
もちろんまだ「そんなことはありえない。あんなに綺麗な人が」という思いの方が断然多かったが。
指をインターホンに近づけたまま、しばらく固まっていた颯太であったが、覚悟を決めるとボタンを押した。
「ピンポーン」
「……」
鳴らしても中からの応答はない。しかし、颯太は諦めずに、二回、三回と繰り返し鳴らした。
「はい」
四回目にしてやっとインターホンごしに聞こえてきた声は、今までに聞いたことがないほど弱々しかった。
「飛鳥さん。颯太です。話したいことがあって来ました」
「えっ!! 颯太くん!? なんで!? 嘘でしょ!! あっ痛!」
飛鳥の声から驚きようが伝わってきた。焦って体を何かにぶつけたことも。
「突然すみません! 有希さんたちに住所は教えてもらいました。もしタイミングが悪ければ帰りますが……」
「待って!!」
ドアの向こうから、急いでこちらにやってくる足音が聞こえ、扉が開いた。
そこに立っていたのは、初めて見る飛鳥だった。いつもはバッチリ化粧をして、どの服もびしっと着ている飛鳥であるが、目の前に立つ飛鳥は、ボサボサの髪と、泣き腫らした目元、目の下には大きなくまがあり、着ているクリーム色の寝巻きはシワだらけだった。心なしか、頬が痩せているように見えた。二日前より、明らかにやつれていた。
「飛鳥さん……」
颯太は一目で飛鳥の憔悴の激しさを理解した。それと共に、胸に激しい痛みが走った。社長たちの話で多少の覚悟はしていたがここまでとは思わず言葉を失った。
「颯太くん……。上がって」
飛鳥は颯太を見ると今にも泣き出しそうな顔をした。瞳に涙が浮かんでくるのを颯太は見逃さなかった。
飛鳥の部屋は、白を基調にしているのか、箪笥やローテーブルは皆白かった。ピンクの布団が敷かれているベッドが右端に置かれており、ベッドの下にローテーブル。反対側の壁に壁掛けテレビと箪笥が設置されていた。
颯太は、飛鳥に促されるままベッドをソファがわりにして座った。颯太の右には肩が当たりそうな距離に飛鳥が座っている。女子が一人暮らしをしている部屋に来るのは初めてで若干緊張していたが、それ以上に横に座る飛鳥が心配だった。
「あの、大丈夫ですか?」
颯太はたまらず声をかけた。上半身を右に向けるとそこには涙を流す飛鳥がいた。飛鳥の目元は赤く腫れ上がっている。
「ずっと……。泣いてたんですか?」
颯太の質問に飛鳥は小さく頷いた。そして、
「ごめんなさい! 颯太君! ごめんなさい!」
飛鳥はパジャマの袖で涙を拭いながらひたすら謝ってくる。
あまりに必死な飛鳥の様子に颯太はさらに胸が痛くなる。しかし、泣きじゃくる飛鳥にどう声をかけてあげれば良いかわからない。
「飛鳥さん……」
と口にするのがやっとだった。
「颯太くん。本当にごめんなさい! 私、最低だった! 颯太くんのこと傷つけちゃったね! いっぱい会社のために頑張ってくれて、私にもたくさん優しくしてくれた颯太くんを……。一番大好きな人なのに。こんなんじゃ嫌われて当然だよね。私はもう自分のことが嫌い……。消えちゃいたいよ」
飛鳥の言葉からは深い後悔と反省の思い、そして自分に対する深い愛情が伝わってきた。そんな飛鳥を見て、飛鳥の思いが自分の心に届き、広がっていくのを感じた。
すでに怒りの感情は休日の間に断ち切っている颯太の心には、どこまでも穏やかで優しい気持ちが浮かんでいる。それと同時に飛鳥のことを愛しく思う気持ちも次々に溢れてくる。
今颯太の心の中にあるのは、
飛鳥に元気になってほしい
飛鳥に笑顔でいてほしい
という気持ちのみであった。
しかし、それをどう伝えたら良いか分からず、颯太は途方に暮れてしまう。
迷った挙句、下を向いて泣いている飛鳥の頭を優しく撫でた。触れるか触れないかのぎりぎりの距離で。それと同時に優しい声色で口を開いた。
「そんなに泣かないでください」
「だって、本当に大好きなのに、もう信じてもらえないんだなって、颯太くんにはもう届かないんだって思って。ごめんなさい!颯太君!嫌いにならないで。大好きなんだ。本当に」
颯太は飛鳥の気持ちがさらに心に染み込んでくるのを感じる、飛鳥の好意がわかり、自然と胸が高鳴ってしまうが今はなんとかそれを抑える。
「飛鳥さん。僕はもう怒ってないですよ」
「えっ?」
颯太が口にした言葉が思っても見なかった言葉だったのか、飛鳥は顔をあげ颯太の目を見つめてくる。
颯太は、飛鳥を安心させるために、穏やかな表情を飛鳥に向ける。
颯太の顔を見つめ、颯太の思いを感じ取ったのか、飛鳥はこちらを見つめたまま大粒の涙をこぼし始める。
「本当?」
飛鳥は不安げな子供みたいな目で見つめてくる。
「はい」
「嫌いじゃない?」
「はい。むしろ好きですし信頼してますよ」
「本当?」
「はい」
「良かった!」
飛鳥はいきなり抱きついてきた。飛鳥の柔らかい上半身が颯太の体に当たる。飛鳥の体から柑橘系の匂いが広がってくる。
颯太は飛鳥の身体を受け止めると、優しく抱きしめ返した。
「颯太くん! 大好きだよ!! 本当に!!
傷つけちゃってごめんなさい!! この気持ちは嘘じゃないからね!!」
飛鳥は力強く抱きしめてくる。
颯太は、飛鳥の気持ちが自分の胸の中に入ってきて心を満たしていくのを感じた。
飛鳥の心の全てが伝わってくるような感じがして、たまらず同じぐらいの強さで抱きしめ返す。
「大好き!! 颯太くん! 大好き!」
飛鳥は何度も気持ちを伝えてくる。
「ちゃんと伝わってますよ。僕も飛鳥さんのこと女性として惹かれてたからなおさらショックだったんだと思います」
飛鳥のまっすぐな思いを受けて、颯太は自分の思いの丈を嘘偽りなく話そうと感じた。
飛鳥の思いに応えるために。
今回のことで自分が大きなショックを受けたのは、どこか飛鳥に惹かれてる自分がいたからだということに颯太は気付いていた。だからこそ、簡単には許せなかっだが。
「えっ? 私のこと、良いと思ってくれるの?」
颯太の言葉を聞いて飛鳥は一瞬で颯太から離れるとその大きな瞳をキラキラさせてこちらを見つめてくる。
「当たり前じゃないですか。凄く魅力的ですよ」
颯太は暴力的なまでの飛鳥の笑顔を受け止め続けることができず、眼を逸らしながらそう口にした。同時にちらっと見えた飛鳥の表情が明るくなっていることに胸を撫で下ろす。
「じゃあ付き合ってくれるの?」
飛鳥は、緊張を浮かべた表情で颯太の眼をまっすぐ見つめてくる。飛鳥の頬は赤く染まっているように見える。
(俺もちゃんと伝えなきゃな……)
聡太は飛鳥の質問を聞くと、覚悟を決めた。飛鳥の思いに誠実に向き合うために、今まで誰にも話したことがないことを初めて口にした。
「すみません。実は高校の頃から気になっている人がいて。飛鳥さんに惹かれる自分がいる一方、その子に惹かれる気持ちもあるんです。こんな気持ちのままお付き合いすることは失礼なので出来ません」
「それって如月さん?」
「はい」
颯太は高校の頃からみずきに惹かれていた。状況的に、恋愛をする余裕もなかったため、そんな気持ちを押し殺したまま、社会人になってしまった。しかし、会社で飛鳥と出会って、飛鳥に対しても特別な感情を抱くようになっていた。
颯太はその気持ちを包み隠さず飛鳥に伝えた。飛鳥のまっすぐな思いに誠実に応えるために。
「そっか。ありがとう教えてくれて。今は、付き合えないのはわかった」
「すみません」
「でも私のことが好きなのは間違いないの?」
「はい。好きです」
「えへへ。それを聞けただけでもう最高だよ! 死ぬほど嬉しい!!」
飛鳥は颯太の言葉を聞くと、とびっきりの笑顔を浮かべる。そして、再び颯太を抱きしめてきた。
「大好きだよ。颯太くん。世界で一番。いつか颯太君の中でも私が世界で一番になるからね」
飛鳥がそう耳元で囁いてくると、
(可愛すぎるだろ!!)
と颯太は心の中で叫んだ。
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