第72話 拒絶

 次の日、憂鬱な気持ちで颯太は目を覚ました。どんよりとした気持ちが抜けず、なかなか布団から出れない。


(行きたくないな……)


 入社してから初めてそう思った颯太は、しばらくぼーっとしていたが、時計を見ると渋々布団から這い出た。昨晩、何回もなった電話を、颯太は一度もとらなかった。飛鳥と話す気にはどうしてもならなかったからだ。

 時間をかけて支度をすると、玄米茶を飲み、姿を消した。


 八王子駅前のコンビニで買い物を済ますと、再び瞬間移動を使い、颯太はヴァルチャーの男子更衣室に姿を現した。荷物をロッカーに入れると、更衣室を出た。


 そこには飛鳥が立っていた。上下グレーのスーツを着ている。


 更衣室から出てきた颯太を見つめるは、不安げで、悲しげで。今にも泣き出しそうだった。その飛鳥の表情に、颯太は一瞬心が締め付けられそうになるが、それを無視して心を平静に保つ。


「おはようございます」

 そう小さく呟くと、颯太は飛鳥の横を通り過ぎようとする。


「待って! 颯太くん。お願い!! もう一度だけ…話せないかな?」

「……何を話すんですか? 昨日全部聞きましたよ」

「ちゃんと伝えたいよ。私の気持ち。昨日は突然だったからさ……。ちゃんと落ち着いて話したい! 颯太くんに聞いてほしいよ!」


 飛鳥の声からはその必死さが伝わってくる。

 しかし、

「もう昨日聞きましたよ。すみませんが、僕は話したくありません。今日はトレーニングに集中したいんで。一人にしてください」


 颯太はそう口にしながら、飛鳥の横を通り過ぎ、地下に続く階段を降りて行った。


 飛鳥の横を通り過ぎる時に、飛鳥の瞳から涙が落ちるのを視線の端で捉えたが、颯太は気づかないふりをした。


 颯太は飛鳥のことをもう二度と信用しないと心に決めていた。話し合う気もなければ、できれば顔も見たくないとまで思ってしまうほどだった。

 少しでも気を許せばまた飛鳥の、いいようにされてしまう。

 二ヶ月間、飛鳥の作戦にまんまとはまっていた自分を悔い、もう二度と隙は見せないと決意している。


(本当は好きでもないくせに、いったい何を話すんだよ……)


 颯太は階段を降りるとトレーニング室に入った。


 珍しく午前中は、特に仕事がなかった。今日の仕事は十七時からの浮気調査一件のみであった。

 午前中…颯太は全力でトレーニングをした。トレーニングウェアが汗でびしょ濡れになり、コンクリートの地面にも体から出た汗が次々に落ちていくほど。

 

 一回だけ、社長と有希が二人で尋ねてきたが颯太がいにも返さずトレーニングを続けていると二人はいつの間にかいなくなっていた。


 十二時過ぎ、颯太は頭にタオルを乗せたままベンチに座り俯いていた。四時間ぶっ通しで激しいトレーニングを行ってきたが、流石に疲れが出始めたため休むことにしたのだ。

 

 無心で行うトレーニングは心を軽くしてくれる。考えたくないことや、苦しみを全て吹き飛ばしてくれる。トレーニングしている最中だけであったが。


 動くのをやめるとまた、飛鳥のことを自然と考えてしまいそうになってしまう。颯太は無理やり他のことを考えて打ち消そうとするがなかなか敵は手強い。 


 それほどに飛鳥の存在は颯太の中で大きくなっていた。


 颯太が心の中で葛藤を続けていると静かにドアが開き、誰かが入ってきた。

 颯太が顔を上げるとそこには、緊張した面持ちをしながら飛鳥が立っていた。


「颯太くん。お疲れ様。あ、あのさ……、お弁当作ってきたから。ここ置いておくね。それじゃあ」

 飛鳥は手に持っていたお弁当をベンチに置こうとする。


「いえ。もういりません。自分で買ってきましたから。今までありがとうございました。」

 颯太は自分の横に置いていたリュックからコンビニで買った弁当を取り出した。

「そっか……」


 それを見ると飛鳥は再び目に涙を浮かべながら弁当を手に持ち部屋を出て行った。


 飛鳥の背中を見送りながら、颯太は胸が痛んだ。作ってきてくれた弁当を受け取らなかった。

 それがどれだけ失礼で、どれだけ飛鳥を傷つけてしまう行為なのかを颯太は理解していた。

 

 しかし、それでももう飛鳥に頼りたくはなかった。飛鳥の優しさが本物ではないと知った今、弁当を受け取ることはもうできなかった。


 夕方五時、一緒に行くと言う飛鳥の提案を断り、颯太は会社を出た。出る間際に、

「お願いだからもう一度話を聞いて! 仕事が終わった後、会えないかな?」

 と頭を下げてきた飛鳥に

「すみません。予定があるので」

 と呟き冷たく飛鳥の願いを断った。

 颯太は無心で浮気調査を行うと、二十時には帰宅した。


♢ ♢ ♢ ♢ ♢



 午後十時過ぎ、飛鳥は自宅に帰った。聡太に仕事終わりに会社で話したいとメールを入れていたけど返事はなかった。

 一応、十時過ぎまで待ったが颯太は現れなかった。失意の内に家に帰ってきたのだった。


 玄関で靴を脱いだ飛鳥はとぼとぼとベッドの前まで歩いて行った。そしてベッドを背もたれがわりにして地べたに座ると、呆然としてしまう。


「颯太くんに嫌われちゃった……」

今日一日の颯太の自分に対する態度を見て、飛鳥は痛いくらいに痛感していた。

自分がもう修復不可能なほど嫌われてしまったことを。

 

昨晩、散々泣いたはずなのに、再び涙が込み上げてきてしまう。


(会いたいよ。颯太くん……)

生きてきた中で一番好きになった人に嫌われる。そのあまりに大きすぎる痛みに飛鳥の心は破裂してしまいそうだった。


 頭の中に浮かぶのは大好きな笑顔で笑っている颯太。もうその笑顔を二度と向けてもらえないのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。


「ごめんなさい!! ごめんなさい!!」

飛鳥は自分の顔をハンカチで押さえながら、何度も謝罪を口にする。

 二ヶ月前はこんなことになるなんて考えても見なかった。会社と両親のために始めた作戦は最悪の結果で終わってしまった。


(なんであんな作戦をやっちゃったんだろう)

話を聞かれた時の颯太の悲しそうな顔が頭から離れない。颯太の悲しみや怒りを想像するだけで頭がおかしくなりそうだった。普段、底なしに優しい颯太が、まともに口も聞いてくれなくなってしまった。


(最低だ……。私は……。自分たちのことしか考えてなかった)

 私は危機的な経営状況の会社と両親を守ることしか頭になかった。颯太君に対してどんなに失礼なことかも理解していなかった。


「ごめんなさい! 颯太くん! ごめんなさい」

 飛鳥の心は後悔と懺悔の気持ちでいっぱいだった。颯太に拒絶されたことがわかっていながらも溢れ出る颯太への想いが止まらない。

 

 飛鳥は頭の中に浮かぶ颯太に対してひたすら謝罪を繰り返した。











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