一ノ瀬――3

 連日の雨などなかったかのように、空がからりと晴れていた。目覚めの一服をと思い煙草に火を点けたはいいが、日差しに皮膚がじりじりと焼かれ、未だにしっかりと目覚めていない頭が拒否反応を起こす。

「眩し……つぅか……アチィ……」

 誰に聞かせるでもない悪態をつき、俺は煙草を灰皿に押し付けた。さっさと室内に戻り、乱暴にレースカーテンを引く。

 今日は二宮がビデオ通話での会議があるとかで部屋にこもっている。古着屋でも探しに行くかと、ビーチサンダルを引っかけてマンションから出た。

 日差しは相変わらず強かったが、帽子をかぶっていると幾分かマシだった。海に近いおかげが、湿度はなくからっと晴れている。潮風を感じながら、街中をふらふらと歩く。サングラスのおかげで――幾分か「筋者」感は増しているが――俺が俳優だと露見することもない。気楽なものだ。

 そうやってしばらく歩いていると、通りに雰囲気のある古着屋を見つけた。期待を胸に中を覗いてみる。なかなか悪くない品ぞろえだった。ひととおり物色してまわり、気になったものを数点購入する。なかなかいい気分で紙袋を受け取り、店内から出ようとした時、入り口に傘のコーナーを見つけた。

 古着屋に傘……? と思いつつ近づいてみたが、これがなかなか面白かった。変な柄のもの、デザイナーの名がぱっと浮かぶもの、中には番傘まである。さらに奥のものを見ようとした時、ちりん、とかすかな音がした。

「あ? こいつぁ……」

 取っ手の形と鈴に見覚えがある。怪訝に思いつつ引き抜いてみる。目が痛いほどの赤。この傘は、間違いない、笹本から借りたものだ。

 俺は傘を持って店員に声をかけた。

「おい、これはどこで手に入れた」

 あろうことか人様からパクったものを売るなんて馬鹿がいるとは。俺が詰め寄ると、店員は「ひっ」と上ずった声を出した。

 店員はそれから、困り眉で俺に告げた。買い取りの情報は言えない、何人も対応するから覚えていない、そもそもその傘を買い取ったのは自分じゃないと。あまりに必死に弁明する姿を見て、これ以上こいつを問い詰めても仕方がないと思い至った。俺はひとまずその傘を買って店を出た。

 何はともあれ、なくしたと思っていた傘が無事に見つかったのだから、よしとしよう。

 それからも何件か店を見て回り、帰路につく頃には夕日が赤々と揺らめいていた。俺は笹本の傘を手に、なんとなくコインランドリーに向かう。指定された通りちょうど晴れの日だし、もしかしたら会えるかもしれない。

 からからと戸を開けると、長い黒髪が揺れ、こちらを振り仰いだ。

「あ、一ノ瀬さん」

 ども、と軽く会釈をする。

「傘、サンキュな。返しに来たぜ」

「良かった、ありがとうございます」

 笹本は傘を受け取ると、満面の笑みを湛えた。

「あー、そんでよ」俺は頭をぼりぼりと掻いた。「礼がしてぇんだけど……アンタいつあいてんの」

 え、と笹本は驚いた顔をする。それから、少し含みのある微笑をした。

「夕方以降ならいつでも……」

「じゃあ、明日の夕方――そうだな、十七時に駅前で待ち合わせでいいか」

「はい、楽しみです」

「おう、じゃあ明日」

 薄い笑みを浮かべて手を振る彼女に、軽く手をあげて応え、その場を後にした。


 その日の夜。夕飯は二宮が作る日だったので、その前に軽くシャワーを浴びていた時だった。髪を洗おうとシャンプーボトルに手を伸ばし、ノズルを押した時、手のひらに違和感があった。漠然と、いつもの感覚と違う気がした。

 改めて手を見てみると、掌は赤黒く染まっていた。俺が買ったシャンプーは透明色のものだ。こんな色じゃない。

 これじゃ、まるで血――。

「う、ぉ……!」

 気づいた瞬間、思わず風呂椅子の上でバランスを崩した。ガタン、と盛大な音とともに、尾てい骨に刺激が走った。物音を聞きつけた二宮が慌てて駆け寄ってくる気配がした。

「どないしたん、えらい大きな音したけど」

 風呂場の扉が開かれる。

「あ、いやシャンプーが」

 動揺が収まらぬまま掌を見せると、二宮は呆れたように笑った。

「なんや、またシャンプー変えたん? 透明なの、なんかお洒落でええなあ」

「へ?」

「自分で買うといて驚いとったら世話ないで。身体冷やすさかい、さっさと洗ってでてきや」

 言うだけ言って、彼は風呂場を後にする。混乱したまま改めて掌を見ると、確かに透明なジェル状のもの以外、何もついていなかった。手の中でかき混ぜてみると、しっかりと泡立った。

「……見間違いか?」

 今日は暑い中で無理をしすぎただろうか。なんとなく煮え切らないものを抱えたまま、早々に髪や身体を洗い、風呂から出た。

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