一ノ瀬――2
窓を叩く強い雨音で、目が覚めた。昨晩から振り続けている雨は、まだ止んでいないらしい。首だけを動かして時計を見る。午前八時。夜が遅かったせいか、眠気はまだ気だるく残っている。
二宮はまだ口を開けて熟睡している。仕事の疲れが出ているのだろう。いつもは生真面目なオールバックだが、こうして前髪が下ろされていると、別人のようにあどけない。
彼と出会ったのは、大阪の舞台で興行があった時だった。いや、正確には再会だ。俺たちはもともと幼馴染だった。幼稚園から中学校まで同じ。彼が大阪に転校したのを機に疎遠になっていた。
千秋楽を終え、打ち上げからそっと抜け出して一人で飲んでいたら、カウンターの隣に座ったのが二宮だった。彼はすぐ、俺がかつての幼馴染だったことに気がついた。喋り口調はすっかり関西の色に染まっていたが、それ以外は何も変わらない彼に、俺はどこかほっとしていた。
それから互いの近況報告が始まった。とはいっても、主に喋るのは二宮の方で、俺は聞き手に回っていた。その感覚すらどこか懐かしかった。
中学・高校・大学とそのまま地元大阪で進学した彼は、卒業後は上京するつもりなのだと言った。だが、上京には両親が反対しているらしく、引っ越し費用はすべて一人で負担せねばならないという。両親となんとなくうまくいっていないことは、それまでの会話から想像がついていた。だからこそ家を出たいのだろうが、だからこそ難しい。そういうこじれた状態に、彼はあった。
彼はまさしく意気消沈といった様子だった。酒の勢いもあったのだろう、「なら俺の家に来るか」という言葉が、気づくと口をついて出ていた。
最初は申し訳なさそうにしていた二宮だったが、元カノが出て行ったせいで2LDKの部屋を持て余しているのだと言うと、「なら、お言葉に甘えて」と控えめにはにかんだ。
それからほどなくして、二宮の就職と共に同居が始まった。それから数年、俺はこの穏やかな生活に甘んじている。俺が俳優として少しずつ売れていって、周りががらりと態度を変え始めた時も、二宮だけは俺の前で態度を変えなかった。それでいて、忙しい教員業の合間を縫って舞台や映画を観に行ってくれるのは、気恥ずかしかったが嬉しかった。損得勘定のない関係はなんて気楽なのだろうと、ふとした瞬間に思わされることも多い。
彼を労わるついでに、二人分の朝食を用意する。サイフォンの電源を入れると、こぽぽ、と優しい音がした。コーヒーが出来上がるのを待つ間に、トースターにパンをセットして、フライパンに卵を落とす。卵は最近、片手でも割れるようになった。
朝食の皿がテーブルに揃った頃、二宮が起きてきた。まだ眠そうに目をこすっていて、後頭部には寝癖がちらついている。おはよう、と声をかける。
「おはようさん」と二宮。「今日も早いなぁ、何かあるん?」
「いや……まあ、借り物を返しに行くくらいだな」
「借り物? いつの間に」
「昨日ちょっとな」
はぐらかそうとする俺に、怪訝そうな眼差しが刺さる。俺は昨日あったことをかいつまんで話した。傘を借してくれた女がどことなく不気味だった、ということは伏せておく。
「へー、そりゃ親切な人に会ったんやなぁ。菓子折りもってかな」
いつも通り柔らかな口調で言って、二宮がテーブルについた。いただきます、と行儀よく手を合わせる。俺も彼にならって両手を揃えた。
雨はまだ止む兆しを見せない。笹本と名乗った女は、晴れたら返しに来ればいいと言っていたか。スマホで天気予報を確認すると、雨は深夜になれば上がる見込みだった。昨日と同じくらいの時間に行けば、また会えるだろうか。
「こらっ、食事中にスマホ見て」
母親のように叱ってくる二宮。はいはい、と俺はスマホを置く。それからゆっくりコーヒーに口をつけた。
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