愛遭い傘
澄田ゆきこ
一ノ瀬――1
八月らしくもない、細かい雨が降っていた。窓の外は夜闇に沈んでいて、格子状にワイヤーの入った窓が、俺と同居人との影を写し出していた。
同居人である二宮は、プリントの束を一枚ずつ採点しているところだった。赤いペンがせわしなく丸やバツをつける。集中している二宮はどことなくピリピリしていて、俺はどうも落ち着かない。無性に煙草が吸いたい気分だったが、部屋の中で火を点けるのも、なんとなく躊躇われた。
「ちょっと出てくる」
返事はない。集中しているのだろう。サイドボードから取った鍵をポケットに突っ込み、俺は玄関の扉を開ける。外に出た瞬間、夜気がすうっと肌を撫でた。
向かう先は近所のコインランドリーだ。洗濯機や乾燥機に用事があるわけじゃないが、ああいう場所は空調設備が整っているから、こういう時の喫煙所代わりに便利な場所だった。
エントランスを出た瞬間、思いのほか強い雨脚に驚いた。傘を持ってくればよかった、と思ったが、傘を取りに戻るのも面倒で、そのまま歩を進めた。霧よりも少し大粒な雨が容赦なく身体を濡らす。コインランドリーに着くころには身体はしっとり湿っていて、よく効いたエアコンの風に、思わず身震いした。
古びた引き戸を閉め、安物の丸椅子に腰かける。深夜一時なだけあって、蛍光灯の下に俺以外の人影はない。いつもなら音を立てて回っている乾燥機も、ひっそりと静まりかえっている。
煙草を吸うには好都合だ。潰れたメビウスの箱から一本を抜き出し、そっと咥えて、火を点ける。ゆっくりと煙を吸い込む。身体にじんわりとニコチンがまわっていく。この瞬間だけが、この世に感じる疎外感から、俺を救ってくれる気がする。
咥え煙草のままスマホをいじっているうちに、気づくと灰皿には何本も吸い殻が溜まっていた。何本目かに火を点けた時、カラカラという控えめな音がして、俺は目線だけでそちらを向いた。
その瞬間、呼吸が少しだけ止まった。
コインランドリーの入り口には、背の低い女が立っていた。背丈はすぐそばの洗濯機より頭一つ大きいかどうか。けれど顔は成熟した大人なのが、なんとも言えずアンバランスだった。額の真ん中で分けた長い黒髪。古ぼけた赤いカーディガンは血のような色をしていた。カーディガンの下には、白いワンピース。
まじまじと観察していたことに気づき、はっとする。見てはいけないものを見てしまったような気がした。取り繕うように「こんばんは」と言おうとしたが、声は掠れてうまく言葉にならない。
俺は慌てて煙草をもみ消した。青白い顔をした女は、その間も俺のことをずっと見つめていた。端的に言って、気味が悪かった。
「……こんばんは。今夜は冷えますね」
不気味な出で立ちとは不釣り合いな、鈴を転がしたような声だった。話しかけられたことに動揺しつつ、俺は「そうだな」と短く返した。
女は大きな鞄から衣類を取り出し、洗濯機の中に詰め込み始めた。気まずさに耐え兼ね席を立った俺を、「まってください」と甘く伸びやかな声が引き留める。
「……あ? なんだよ」
「あの、私すぐに出ますから……お気になさらず」
「……そうかよ」
そう言われてしまうと、帰るのもどこか気まずかった。赤い丸椅子に腰かけ、ぎこちない空気の中で、せわしなく煙草を取り出した。火を点けて煙を吸い込んでも、気持ちはどこか落ち着かない。
雨は先ほどよりも激しさを増していた。傘を持たずに来てしまったから、どの道もう少し雨宿りがしたかった。
採点が終われば、きっと二宮から連絡が来るだろう。この深夜に他に時間をつぶせる場所といえば居酒屋くらいだが、一人で安酒をひっかける気にもなれない。
女が早く出ていくことを祈りながら、俺はスマホを取り出し、ロックを解除した。ネットサーフィンをしようとしても目が滑る。女の存在がどうしても視界の隅に引っかかる。すぐ帰ると言ったわりに、女は一向に出ていく気配がない。
室内には遠い雨音と、空調の回る音だけが響いている。息の詰まるような気まずさは、単に女性と二人きりだからというだけではない、気がした。
「あの……」
唐突に女が声をかけてくる。
「なんだよ」
無意識に苛立ちが口調に混じる。沈黙。さすがに態度が悪かったかと思った折、「私、家、近くなんです」と女が言った。特に気を悪くした様子はない。
「……雨、すごいですね。傘、ないんじゃないですか? よかったら、私の使ってください。晴れたら、またここに返してくれればいいので」
一言一言を区切るような、奇妙な喋り方だった。
「え、いや……ワリィし。それだとあんたが濡れるだろ」
「私、笹本って言います」
唐突な自己紹介に面食らう。何も言えずにいるうちに、「一ノ瀬さんですよね?」と声が続いた。黒い瞳がまっすぐにこちらを見つめている。
「映画、見ました。格好良かったです」
「お、おー……ドウモ」
俺はぎこちなく頭を下げた。
ファンだったか。気味が悪いと思ったことに、一瞬引け目を感じた。
邪険に扱えば、またマネージャーからネチネチと嫌味を言われる。ここはありがたく好意に甘えておくか、と彼女に向き直る。
「あー……やっぱ傘、借りるわ。ササモトさん、だったか。サンキュ。……じゃ、夜おせーから気ぃつけて」
「はい、ありがとうございます」
女――笹本は、そう言って口角を上げた。この時抱いたかすかな違和感は、真っ赤な傘を受け取ってマンションに戻る道中で、明確なものに変わった。――なぜ、彼女はお礼を言ったのだろう?
思わず立ち止まり、コインランドリーを振り返る。
取っ手についていた鈴が、ちりん、と静かに鳴った。
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