第37話 ボクはキミのことを忘れない
駆けつけてきた警察があいつを逮捕したあと、いろいろと事情聴取された。
そしていま最後の警官が挨拶をして、この部屋を後にしていた。
「終わったの……かな」
こはるが小さな声でつぶやいていた。
きゅっと胸の中がしまるような気がする。
「うん。もう大丈夫だと思う」
僕はこはるの前で、小さな笑みを向けていた。
僕はこはるのことを思い出していた。大好きだった気持ちもふくめてすべて。
こはるのこと。こはるが僕のためにがんばってくれていたこと。
何度も何度も、僕は忘れてしまっていたこと。それでも彼女は諦めなかったこと。
僕のために。僕に思い出してもらうために。いろんな形で僕の前にあらわれて。どれだけ苦しくても、僕が忘れてしまっても、ずっとずっと好きでいてくれたことも。
あの男は逮捕されて拘束されていった。いろいろ事情聴取はされて、へとへとにはなったけれど、それでも今は安心感に包まれていた。
少なくともこれでしばらくはあの男は近づけはしないだろう。
どこまでの罪になるかはわからないけれど、少なくとも接近禁止命令への違反は間違いない。こはるを襲おうとしていたことも未遂とはいえ、考慮されるだろう。
「まぁ、でも引っ越しとかも考えた方がいいのかも。あいつはこの家にこだわりがあるみたいだったし」
僕が告げた言葉に、こはるは首を振るう。
「ううん。ううん。今はそんなことはいいんだ。ボクは、ボクは」
こはるはうまく言葉がでてこないようで、声を詰まらせながら告げる。
「たけるくんが。たけるくんが戻ってきてくれたこと。それだけでいいんだ」
こはるは僕をじっと見つめていた。
「たけるくん、ボクのこと、思い出したんだよね。ボクのことを今見てる。忘れていないの? ボクのこと覚えている?」
心配そうにこはるは僕をじっとみていた。
僕はこはるのことを思い出していた。こはるが大好きな気持ちも思い出していた。
でも僕は忘れなかった。どうして忘れなかったのかわからない。
僕はただこはるを守りたいと願った。こはるのことを守らなきゃいけないと思った。
もしあそこで記憶をなくしてしまっていたら、僕は気を失ってあいつは逃げ出せていたかもしれない。
そのせいで僕は忘れなかったのかもしれない。こはるを傷つけたあいつを絶対に逃さないようにって、そう強く願っていたから。
「うん。覚えているよ。忘れていない」
ゆっくりとうなづく。でもこはるはまだ心配なようで、僕を潤んだ瞳で見つめ続けていた。
「どこまで覚えてるの。ねぇ、全部思い出したの。ボクのこと、どう思っているの」
「全部思い出したよ。今までこはるががんばってくれていたことも、そして君への気持ちもすべて、何もかも」
「本当に!? 本当なの!? もう、もう忘れないの? たけるくんは、ずっと。ずっと一緒にいてくれる?」
こはるはもうほとんど泣き出していた。
こはるの気持ちは痛いほど伝わってくる。
ずっとがんばってくれていた。ずっと僕のために、僕の記憶を取り戻すために、何度も何度も、何回も。
僕はすべて思い出していた。最初にこはるのことを忘れた時から、つい今この瞬間まですべての記憶を思い出していた。
そしてこはるへの気持ちをも。
「うん。病気のことは正直わからないけど、少なくとも今は覚えている。忘れていないよ」
「良かった。良かったよ……たけるくん……たけるくん……!」
こはるは何度も僕の名前を呼んでいた。そのたびに僕はこはるにうなづく。
「もう、忘れたりしないよね。もう大丈夫なんだよね。ねぇ、たけるくん。大丈夫だよね」
心配なようで何度も僕に問いかけてきていた。
そんなこはるが愛おしくて、そして申し訳なくてぎゅっと胸の中が痛む。
「うん。大丈夫だよ。僕はもう忘れない。忘れていないよ」
正直なところ、これからも本当にこはるのことを忘れないのかなんてわからなかった。
いま覚えていることが奇跡のように思える。なぜ忘れないのかはわからない。だからこれからも忘れてしまわないかなんてわからなかった。
それでも今はこはるのことを覚えている。大好きなこはるのことを覚えている。
だからこはるに安心してもらいたくて、何度でもこはるの言葉を肯定していた。
「ごめんね。こはるのことを忘れていて」
僕がそう言うと、こはるは大きく首を振るう。
自分が襲われかけたことなんて、どうでもいいとばかりに、僕の顔をまっすぐに見つめていた。
「ううん。ううん。だって病気だっただもん。仕方ないよね。たけるくんのせいじゃない。でもたけるくんはボクのことを忘れているのに、いつだってボクを助けてくれた。校舎裏で知らない子にからまれた時も、街中であいつにからまれた時も、そして今日も。ボクのことを助けてくれた」
こはるの頬にとうとう涙がこぼれる。それは肌に痕を残しながら、そして幾重にも重なってこぼれていく。
「ボクのこと、覚えていないのに。忘れているのに。ボクをずっと助けてくれた。ずっとずっと苦しい時にボクを救ってくれた。こんなに優しい人は、世界中のどこを探してもいないよ」
いちどこぼれだした涙は止まらなくて、こはるの顔は大きく崩れていく。
「だから、だからさ。ボクは、キミが好きなんだ。キミがどんなにボクのことを忘れてしまっても、ボクはずっとキミを見ていたよ。だから出来れば、もういちどボクをみてほしい。ボクのことを好きって言って欲しい」
こはるの言葉に僕の胸の中がいっぱいになる。
僕は思わずこはるを強く抱きしめていた。
「僕も。僕もこはるが好きだ。大好きだ。もう忘れない。絶対に。だから僕とずっと一緒にいてほしい」
「うんっ」
こはるが僕の胸の中でうなづいていた。
「忘れていてごめん。僕は君のことを忘れてしまったけれど、君は僕のことを忘れないでくれた。ずっとずっと好きでいてくれたね」
「いいの。病気だったんだから。忘れていたけれど、キミはいつだってボクのことをまっすぐ見てくれた。変にごまかしたりしないで、気持ちをぶつけてくれたから。だから、信じられた。またボクをみてくれるって。だからボクは誓ったんだ。キミがどんなにボクのことを忘れたとしても、ボクはキミのことを忘れないって」
こはるは崩れきった顔で、それでも笑顔でボクをみていた。
僕もこはるの顔をじっと見つめていた。
どうして忘れていたのだろう。こんなにも愛しいのに。
もう病気の影響は見られなかった。もうこはるのことを忘れはしなかった。
病気が治ったのかどうかはわからない。もしかしたらまた僕はこはるのことを忘れてしまうのかもしれない。
こはるには悲しい想いを重ねさせてしまうのかもしれない。
でも病気なんかに負けたくないと思った。
僕はこはるのことが大好きだから。
大好きなこはると一緒にいたいから。
だから、僕は。強く彼女を抱きしめる。
「大好きだよ。絶対にもう離さない」
「うん……っ」
こはるは僕の胸の中でずっと泣いていた。
ずっとずっと我慢していたのだろう。ただただ声がかれるまで、泣き続けていた。
たまっていた想いを吐き出すように。ただ僕の中で泣き続けていた。
もう絶対に忘れない。
僕は心の中で誓う。絶対に忘れない。
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