第三話 錆び付いた刀と、謎の男
――やはりこんなンじゃあ、役に立ちそうもねぇな。
庭の桜が開花の
何しろ義兄・佐藤彦五郎の邸の蔵で、十年は埃を
江戸で暮らすとなった際、歳三は彦五郎に刀を
彦五郎は蔵にある刀を好きに持って行けといい、歳三が選んだのがこの刀である。
刀の手入れなどしたことがなく、
もし実戦となったら良くて大怪我、最悪あの世だ。
そんなとき、庭に面した障子に人影が描かれた。猫のように足音をさせず、無言で立つその影は今や見慣れたものだ。
「――いるんだろ? 総司」
歳三は刀身を鞘に戻すと、その影に声をかけた。
「心配しなくても、例のアレを
例のアレと言われ、歳三は
「とくかく入れ! そんなところでしゃべってると、近藤さんに知られちまうだろうが!」
「――そんなに恥ずかしいんですか?
障子が開くといたのはやはり総司で、にこにこと笑っている。
「お前……、楽しそうだな……?」
豊玉――、それは歳三のもう一つの名前だ。人前では決して名乗ることがない、秘密の名前である。歳三は祖父が俳句を
「それはもちろん! 別の意味で傑作ですからねぇ。
その豊玉発句集こそ、総司の言う〝アレ〟である。
豊玉発句集は、歳三がこれまで自身が綴ってきた句を纏めてある冊子だが、自身の句が決して評価されるものではないことは、歳三にもわかっているのだ。
問題はそれをよりによって総司に覗かれ、以来歳三は総司の口を塞ぐのに必死だ。
「うるせぇ!!」
「ほらほら、若先生に知られるのが嫌なんでしょう? 怒鳴らない、怒鳴らない」
「覚えてやがれ……」
思わぬ弱みを総司に握られ、歳三は仕返しをしてやると思うのだがこれがなかなか難しい。剣術の腕が己よりいいのは仕方ないが、口も達者ときている。
「この間言いかけたことですが――」
不意に真顔になった総司に、歳三は
「この間?」
「……やっぱり聞いていなかったんですね? 私が
三番町は、旗本や御家人の邸が点在する地で、その三番町に天然理心流門人の小さな道場があるのだ。
総司曰く、その門人の道場に男が訪ねてきたという。
「入門希望者――じゃなさそうだな?」
「ええ。入門したいのなら
再び
「
総司は苦笑した。
「その男、ここには薬売りは来るのかと聞いて帰ったそうです」
確かに、妙なことを聞きに来たものである。
薬が欲しいなら医者か、
しかもそれを聞いてきたのは、三十前後の浪士だという。
歳三は舌打ちをした。
江戸の剣術道場に薬売りが来るかはわからないが、かつて多摩農村にて剣術道場に顔を出していた薬売りなら一人いた。二年前にその薬売りはその地から姿を消し、
「その男が会いたがっている薬売り、私は土方さんだと思います」
総司が、にっと笑う。
「冗談じゃねぇ。俺はもう薬売りじゃねぇぞ。今さら何の用があるってンだ!」
二年前――、歳三は確かに薬売りだった。二度の
剣術も習い始めていた歳三は、多摩に点在していた剣術道場に顔を出してはそこの門弟と手合わせもしている。
歳三を捜しているなら、そのいずれかの人間だろう。
「土方さんは〝今さらでも〟、やられたほうは今までも根に持つものですよ。そういう手合いは自尊心だけは大きい。そのとき、薬売りに叩きのめされるなぁんて思ってませんから。意地悪ですねぇ? 土方さんは」
「向こうが立ち合えっていうんだ。誘ってきたのは向こうだぜ」
「木刀を持ち歩いていれば、そうなりますよ。ま、私だったら相手が誰であろうと見くびるようなことはしませんが」
総司言うとおり、歳三が薬売りとして顔を出していた一部の道場は歳三を軽視した。
薬売りのくせに剣術もやっていると聞いて、たいしたことがないだろうと
歳三は道場に顔を出せば武者修行もできるし、薬も売れて一石二鳥だが、人を上から見下ろしてくる人間に対してはついカッとなる。
今になって現れた
江戸までやって来たとなると、相当な
「総司。今の話、近藤さんには話したのか?」
「いえ。先に土方さんに、と思いまして」
そう聞いて、歳三は口の
近藤が今の話を聞けば腰を上げるだろう。彼はそういう男だ。
「だったら近藤さんには言うンじゃねぇ。あの人を巻き込むと、大先生の寿命を縮めることになりかねねぇ」
「どうして、大先生の寿命を縮めるんです? ピンピンしていますよ?」
「ばーか。近藤さんは次期四代目となる男だぜ? もしなにかあってみろ。ぶっ倒れねぇ保証があるか? それとも――、お前が継ぐか?
「よしてくださいよ。縁起でもない」
総司はそう言って、両手を広げて首まで振った。
彼に、試衛館を継ぐ気持ちはなさそうである。
確かに試衛館には近藤がいる。試衛館創設者である近藤周助の実子ではなかったが、彼を後継者にとしたのは周助自身である。その周助は、試衛館の末を気にしている。
次期四代目とした男が斬り合いに混ざり、怪我などすればどう思うだろう。
近藤の腕なら斬られるということはないと思うが、周助の気持ちを考えれば、彼に言わないのが得策である。
「だったら黙っていろ」
「でももし、その男が土方さんを襲おうとしているならどうするんです?」
「相手をするしかねぇな」
歳三は総司にそう言いながら、脳裏には先ほど抜いた自身の刀が浮かんだ。
近藤のことを心配するよりも、自分が斬られそうである。
この日から三日後、歳三は日野・佐藤道場へと向かったのである。
◆◆◆
江戸・
そんな吾妻橋近くにある
「なぁんで昼間から、むさっくるい野郎と
言われた相手は眉間に
「ならば、
いかにも、迷惑そうな顔である。
歓迎されていないことは、目が合った時にわかっていた。
男の名は、永倉新八という。
剣の腕はいいらしく、
出会いは口入れ屋にて紹介してもらった稼ぎ先で一緒になったのが最初で、それから何故か町でばったりと会うようになった。
元は原田も永倉も主君もちの藩士だったが、現在は浪士。共通しているのはそれくらいだが、まさか腹を満たそうと入った店でも出くわすとは思っていなかった原田は、さらに嘆く。
「
原田は五尺八寸(※約175センチメートル)の長身で、
しかし、実戦の機会がなくなった泰平の世で彼が槍を振るうことはなく、江戸に来て、さらに腕一般でというわけにはいかなくなった。
しかも酒好きな上に、短気。売られた
よく死ななかったと思うが、あれは喧嘩の勢いでするものではないなと、原田は後に悔いた。しかし、浪士となった現在は
自ら職を探し、稼がねばならない。
すると永倉が、呆れたように口を開いた。
「三食昼寝付きなどというからだ。馬鹿め」
「正直に言っただけだぜ?」
この際、用心棒でもいいと思って
主は絶句したあと、
「だからお前は馬鹿だというのだ。そんなところがあると思っているのだからな。言っておくが、俺をアテにしても無駄だ。お前に
「相変わらずの堅物だなぁ。永倉」
そんな二人の耳に「あれー」と驚いた声が飛び込んでくる。
原田が視線を運ぶと、自分たちよりも若い男が笑顔で立っていた。
「おいおい……、おまえもかよ。平助」
藤堂平助――、彼も訳あって浪士となったらしい。
歳は若いが、神田お玉ヶ池の北辰一刀流・玄武館の門弟だったというから驚きである。
これも妙な縁で、原田が永倉とばったり出くわした何度目かのとき、ちょっとしたいざこざに巻き込まれた。
最近の江戸は浪士による人斬りが横行し、役人に目を付けられたのである。
道の真ん中で浪士が二人、立ち話をしていたのだから無理はない。違うと言っても信じてもらえず、
そこに、藤堂もいたのだ。
彼の場合はやくざ者に絡まれていた者を助けただけが、喧嘩とは不届きと捕まったらしい。これを境に、三人が出くわす率が増した。
「いつの間に、親しくなったんだい?」
藤堂が苦笑しながら首を傾げると、永倉の額に再び皺が刻まれた。
「親しくはなってはいない。
「俺もまさか、
すると、永倉が
藤堂は「やな縁だなぁ……」と笑う。
「俺だって嫌さ。このままお前らと腐りながらいるなんてよ。
「原田、言葉を選べ」
永倉の
「まぁまぁ、そんなことよりさ――」
藤堂が話をし始めて
現在、江戸市中を騒がせているという
開国以降、異人襲撃が多発しているとは聞いていたが、商人も襲われるらしい。それゆえなのか、口入れ屋には用心棒の職が幾つかあった。
問題はその人斬りの中に、左利きがいたことだ。
「――ぜひ、立ち合ってみたいものだ」
「相手は人斬りだぜ? 永倉」
「でもさぁ、左で一撃って相当な腕だと思うぜ? 左之助さん」
「立ち合って勝てンのかよ? 勝ったとしても所詮俺たちは、世を
「死ぬのが恐いか? 原田」
永倉の一言に、原田は激昂した。
「――てめぇ、もういっぺん言って見やがれ!!」
「落ち着きなよ、左之助さん。店の中だぞ」
年下の藤堂に制されて、原田は永倉に殴りかかった拳を引いた。
「原田、お前が腐るのは勝手だ。だが俺は、腐らぬ。武士が
初めて明かしてくる永倉の武士としての
「ふん、格好つけやがって。死ぬことなんぞ恐くねぇよ。覚悟ならとっくの昔に出来てるぜ。ただ無駄死にするつもりはねぇだけさ」
それから原田と永倉は目を合わせることもなく、黙っていた。
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